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教科書だけで解く早大日本史1-7 社会科学部2020

 社学小噺もネタがなくなってきました。社学のもつ早稲田っぽさというと卒業生に弁護士がいるかと思ったら、一方でタイで健康体操を教えているのがいたりするカオスなところです。昼間学部になってもそうした伝統は受け継がれていることでしょう。

それでは最終大問Ⅳに入りましょう。

問題は、河合塾速報でどうぞ。

 大問Ⅳは資料問題です。【資料A】では永丘智太郎「日本は何故南進するか」(1941年10月)、【資料B】では南洋協会『南洋鉱産資源』(1940年)から出題されました。日本の戦争と資源は切り離して考えることのできない問題です。そして、現在も多くの資源を輸入に頼っている状況があり、食糧自給率の低下や物品の海外頼みの状況が今回のコロナ禍で考えざるを得ない問題として浮上しています。

◎問1 「わが委任統治領たる南洋庁管下の群島」について、委任統治権を日本が獲得する根拠となったものはどれか。1つ

イ ヴェルサイユ条約  ロ 九カ国条約 
ハ 日英同盟協約    ニ 石井・ランシング協定  
ホ 四カ国条約

 日本が南洋諸島の委任統治権を獲得したのはイのヴェルサイユ条約です。1919年パリで行われた講和会議に西園寺公望を全権とし、牧野伸顕らが参加しました。西園寺はパリ留学の経験があり、当時のフランス首相クレマンソー(こちらもかなりの老人)とは旧知の仲でした。条約交渉という大切な交渉を人間関係や情に頼る発想がいかにも日本的です。もっとも西園寺はフランス語をほとんど忘れていたようですが。

閑話休題

「日本はヴェルサイユ条約によって、山東省の旧ドイツ権益の継承を認められ、赤道以北の旧ドイツ領南洋諸島の委任統治権を得た。」(太字は筆者による)

 しかし、山東問題ではアメリカが反対し、中国も国内で五・四運動が展開されて調印を拒否しました。ヴェルサイユ条約はヨーロッパにおけるドイツ問題を優先するという姿勢からアジアの問題は後回しになりました。ヴェルサイユ体制に左右されたくないアメリカはワシントン会議を開き主導権の確保を目指します。

 ホの四カ国条約はワシントン会議で締結された条約です。

「会議においてはまず、米・英・日・仏のあいだで、太平洋諸島の現状維持と、太平洋問題に原因する紛争の話し合いによる解決を決めた四カ国条約が結ばれ、これにより日英同盟協約の廃棄が同意された。(1921年)」

 ロの九カ国条約はワシントン会議で締結された中国問題に関する条約です。

「ついで翌1922年、この4ヵ国に、中国および中国に権益を有する主要4カ国(※イタリア、ベルギー、ポルトガル、オランダ 筆者注)を加えて九カ国条約が結ばれ、中国の領土と主権の尊重、中国における各国の経済上の門戸開放・機会均等を約束し、日米間の石井・ランシング協定は廃棄された。」

 ワシントン会議については、さらに海軍軍縮条約で主力艦の保有比率を米・英5、日3、仏・イ1.67に制限し、今後10年間は老朽化しても代艦を建造しないことを定めました。

 それぞれの引用で廃棄された、ハの日英同盟協約(1902、1905、1911)、ニの石井・ランシング協定(1917)は二国間の取り決めでした。

 正解はイです。レベル的には中学教科書レベルの問題でした。◎評価。

(出題ミス)◎問2 「タイ、仏印、英領マレー、英領ボルネオ、フィリピン、蘭印、およびポルトガル領ティモールの諸地域」のうち、真珠湾攻撃と同日に日本陸軍が上陸した地域はどこか。1つ(2つ)選べ

イ タイ  ロ 仏印  ハ 英領マレー  
ニ 英領ボルネオ  ホ フィリピン

 こちらは出題ミスの問題でした。問題では「1つ選べ」とありますが、選択肢の中に適当なものが「2つ」存在します。

 ハル・ノート(アメリカの最後通牒)を拒否した日本は12月1日の御前会議で対英米開戦を決断します。

「12月8日、日本陸軍が英領マレー半島に奇襲上陸し、日本海軍がハワイ真珠湾を奇襲攻撃した。日本はアメリカ・イギリスに宣戦を布告し、第二次世界大戦の重要な一環をなす太平洋戦争が開始された。」

 教科書本文の引用から、ハの英領マレーが適切だとわかります。陸軍は半島北部の英領コタバルに奇襲上陸し、12月10日、マレー沖でイギリス東洋艦隊の戦艦2隻を撃沈。自転車を使った銀輪部隊で南下してシンガポール(昭南)を制圧します。

 ただし、用語集には以下の項目があります。

シンゴラ上陸 ①1⃣12月8日、日本軍は同盟国であったタイのシンゴラに奇襲上陸し、タイを制圧下においた。

 つまり、イのタイも適切な選択肢であるということです。

 採点ではどちらかであれば正解とされたようです。出題者の意図通りならば◎評価ですが、仮に2つ選ぶ問題であれば△評価でした。

〇問3 (問2)の地域の太平洋戦争終結後の状況に関する記述について、不適切1つ

イ インドネシアは独立を宣言した。
ロ ベトナムは独立を宣言した。
ハ フィリピンと日本との間では賠償協定が結ばれた。
ニ インドネシアと日本との間では平和条約が締結された。
ホ タイと日本との間では賠償協定が結ばれた。
「一方、西欧列強の支配下にあった多くの植民地では、戦争協力と引きかえに戦後の独立が約束されたり、大戦の過程で生活基盤が根本的に破壊されたりしたことから、大戦が終結するとともに民族解放運動が高揚するようになった。①」(本文)
①「日本の占領地域でも、インドネシアとベトナムがあいついで独立を宣言したが、それぞれ旧宗主国であるオランダとフランスが武力でおさえ込もうとして、激しい戦闘が生じた。」(脚注)(太字は筆者による)

 脚注にあるようにイ、ロが正文です。
 インドネシアはスカルノをリーダーとしてオランダから独立し、スカルノはインドネシアの初代大統領となります。
 ベトナムはホー=チ=ミンを指導者とする北ベトナムがフランスとインドシナ戦争を、続いてアメリカとベトナム戦争を戦います。

 残りの選択肢を確認しておきましょう。

②「サンフランシスコ平和条約は、日本が交戦国の戦争被害に対しておもに役務の供与により賠償を支払う義務を定めたが、冷戦激化の情勢に応じて、アメリカをはじめ多くの交戦国が賠償請求権を放棄した。これに対し、日本軍の占領を受けたフィリピン・インドネシア・ビルマ・南ベトナムの東南アジア4カ国はそれぞれ日本と賠償協定を結び、日本政府は1976(昭和51)年までに総額10億ドルの賠償を支払った。その支払いは、建設工事などのサービス(役務の供与)や生産物の提供という形をとったため、日本の商品・企業の東南アジア進出の重要な足がかりとなった。また、非交戦国のタイや韓国に対しても、日本は賠償に準ずる支払いをおこなった。」(脚注)(太字は筆者による)

 脚注にあるように、タイとの間では賠償協定は結ばれておらず、ホが不適切となります。インドネシアに関しては用語集(山川)に「インドネシアとの平和条約・賠償協定は、1958年にスカルノ大統領が来日しておこなわれた」とあります。

※サンフランシスコ平和条約に関しては、中国(両方とも)は招待されず、インド・ビルマ・ユーゴは不参加、ソ連・ポーランド・チェコは調印拒否しました。これらの国々とは個別に、日華平和条約(台湾)、日印平和条約、日ビルマ平和条約などが締結されます。ソ連とは日ソ共同宣言が出されます。講和に関しては、全交戦国との講和を主張する全面講和と講和を優先する単独講和が国内で激しい対立となり、東大総長・南原繁が全面講和を唱えて吉田首相と対立しました。こちらは2020年法学部で出題されました。

 脚注に依拠しましたので〇評価です。

〇問4 「石炭」に関連して、不適切を2つ

イ 高島・三池炭鉱は明治政府に接収されて官営化され、後に払い下げられた。
ロ 南満州鉄道株式会社によって撫順炭鉱の経営が行われた。
ハ 徳永直の『太陽のない街』は炭鉱での労働争議を題材にした作品である。
ニ 第1次吉田内閣時に傾斜生産方式の対象となった。
ホ 芦田均内閣は炭鉱国家管理問題が契機となって退陣した。

 非常に難易度の高い正誤問題です。教科書に解答根拠を発見できるでしょうか。

 イの高島炭鉱については、後藤象二郎に払い下げられ、のちに三菱が買収したことは「主要な払い下げ工場・鉱山」の表で確認できます。同じく、三池炭鉱についても三井に払い下げられたことが表に記載されています。炭鉱では院内、阿仁が古河へ払い下げられています。炭鉱以外では、三菱への払い下げでは長崎造船所、三井への払い下げは富岡製糸場を覚えておきましょう。なお、炭鉱は各藩が経営していたものを明治政府が官営化したのちに払い下げています。

 ロの南満州鉄道株式会社(満鉄)による鉱山経営については、教科書本文に「鉄道沿線の炭鉱なども経営し」と書かれているのみです。用語集で撫順・煙台炭鉱の経営、鞍山製鉄所の経営についてふれられています。

 ハの徳永直『太陽のない街』は戦前のプロレタリア文学の代表作の一つです。教科書では表紙とともに「『太陽のない街』は、1926(昭和元)年の共同印刷争議における徳永直みずからの体験を素材とした小説。」との解説があります。「炭鉱での労働争議」ではないため不適切です。

第1次吉田内閣は経済安定本部を設置して対応し、1947(昭和22)年には、資材と資金を石炭・鉄鋼などの重要産業部門に集中する傾斜生産方式を採用し、復興金融公庫(復金)を創設して電力・海運などを含む基幹産業への資金供給を開始した。」

 ニは正文でした。したがって残る1つの誤文はホになります。第1次吉田内閣が総選挙で敗北し、社会党の片山哲を首班とする連立内閣が成立します。

「内閣は連立ゆえの政策の調整に苦しみ、炭鉱国家管理問題で党内左派から攻撃され、翌年(1948)2月に総辞職した。ついで民主党総裁の芦田均が、同じ三党の連立で内閣を組織したが、広く政界からGHQまで巻き込んだ疑獄事件(昭和電工事件)で退陣した。」

 片山哲=炭鉱国家管理問題、芦田均=昭和電工事件がそれぞれの退陣理由です。

※片山内閣では労働省の設置、芦田内閣では公務員のストを禁止した政令201号も覚えておきましょう。また、片山内閣誕生の背景でもあり、政令201号の原因ともなった、吉田内閣時の「ニ・一ゼネスト計画」中止も重要です。GHQに中止を命令された際の全官公庁共同闘争委員会議長・井伊弥四郎の「一歩退却、二歩前進」というラジオ放送が有名です(※学生時代に古本市で入手した本が井伊弥四郎所蔵の本だったことがあります。残念ながら散逸してしまいました。)

 ハとホが不適切でした。ハが掲載資料の解説、ホが本文に依拠しており〇評価ですが、イとロの判定はなかなか厳しいでしょう。

◎問5 「事変」(=北支事変または支那事変と呼称されていた盧溝橋事件以後の戦争のこと)の発生後に起った出来事として適切なもの2つ

イ 関東軍による華北分離工作
ロ 日独防共協定の締結
ハ 中国共産党の長征
ニ 南京における新国民政府の樹立
ホ 張鼓峰事件

 年代はすべて本文依拠の◎問題です。

「1935年以降、中国では関東軍によって、華北地域を国民政府から切り離して支配しようとする華北分離工作が公然と進められた。」

 関東軍は華北に傀儡政権(冀東防共自治委員会)を樹立しました。「事変」の語を正確にとらえているかのミスを誘った問題です。難関大受験者は「梅津=何応欽協定」、「土肥原=秦徳純協定」、自治政府首班の「殷汝耕」まで覚えておいてもいいでしょう。梅津、土肥原ともに戦後直後にも名前を見ることになります。

「1936(昭和11)年、広田内閣は、ソ連を中心とする国際共産主義運動への抵抗を掲げる日独防共協定を結んだ。イタリアは、翌年これに参加し(日独伊三国防共協定)、つづいて連盟を脱退した。こうして、国際的孤立を深めていた日本・ドイツ・イタリア3国は反ソ連の立場で結束し、枢軸陣営が成立した。」

 日独伊三国同盟は1940年9月です。ほぼ同時に北部仏印進駐がおこなわれました。こちらとの混同を誘った問題です。

「中国共産党軍は、国民党軍のたびかさなる猛攻のため南方の根拠地瑞金を放棄し、1万2000キロ以上の苦難の大行軍(長征、1934~36年)を敢行して西北辺境の延安に移動し、新しい革命根拠地を築いた。」(脚注)

 日中戦争の時点では西安事件が終わっており、第2次国共合作から、すでに抗日民族統一戦線が結成されているはずです。このこと自体は中学生教科書レベルですが、「長征」は日本史選択者にはやや難しい用語かもしれません。もちろん「事変」前です。

※現在(2020年)の社会科学部の学部長は劉傑先生です。いまから20数年前、劉傑先生の「中国研究」という授業では、授業の前半で中国の政治制度を学び、授業の後半は新14号館の映像設備を利用して、大画面でNHKスペシャルの毛沢東特集を見るというものでした。延安での毛沢東のインタビューや『実践論』『矛盾論』執筆の様子、「革靴を食べた」という長征での有名な逸話などが紹介されました。

 残る、ニ・ホが「事変」後の出来事です。
 南京の新国民政府は国民政府のナンバー2であった汪兆銘を首班とする傀儡政権です。
 張鼓峰事件は1938年にソ連と満州国の国境不明確地帯で起きた軍事衝突です。また、翌年1939年5月には満州とモンゴル人民共和国の国境地帯でソ連・モンゴル連合軍と軍事衝突するノモンハン事件が起きます。そのさなか、ドイツがソ連と独ソ不可侵条約を締結し、ソ連と交戦中だった日本は大混乱に陥ります。平沼喜一郎首相は「欧州情勢は複雑怪奇」と無能を暴露して退陣します。

 張鼓峰事件のみが脚注と資料依拠ですが、それ以外の選択肢はすべて本文で判定可能なため◎評価です。

 短くまとめるつもりが、いつもより1000字ほど多くなってしまいました。

 次回、問6から最後までとなります。

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