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教科書だけで解く早大日本史 2021社会科学部 2

社会科学部の校舎である14号館は1994年夏から工事が始まり、1998年の春から現在の14号館が稼働しました。

2021社学編の第2回です。今回は中世から近世です。

※大学公式ページで問題を確認してください。

※東進データベースは要登録です。

△問3 築城に関して 不適切2つ

イ 中世の城は平山城や平城が多かったが、安土桃山時代には山城が増えた。
ロ 安土城などの襖や壁、屏風には、金箔地に彩色する濃絵の豪華な障壁画が描かれた。
ハ 熊本城を築城した小西行長は、文禄・慶長の役で責任を問われ城を没収された。
二 徳川家康は京都に伏見城を築き、上洛時の居館とした。
ホ 大坂夏の陣後、江戸幕府は大名の居城を一つに限る一国一城令を発した。

中世、おもに戦国期の築城に関する問題です。古代の築城は白村江の敗戦後につくられた大野城、基肄城きいじょう、朝鮮式山城などがあり、その他には東北各地につくられた城柵がありました。

中世に入ると防御のための城として山城がつくられるようになります。稲葉山城(のちの岐阜城)などもその例です。

① 中世の城は戦時の防塞としての役割を果たす山城やまじろが多かったが、この時代(※桃山文化 注は筆者による)の城は領国支配の利便をも考慮して、山城から小高い丘の上に築く平山城ひらやまじろや平地につくる平城ひらじろとなり、軍事施設としての機能と城主の居館・政庁としての機能をあわせもつものとなった。(166頁 脚注①)

の「安土桃山時代には山城が増えた」は不適切です。

正しい文です。「内部の襖・壁・屏風には、金箔地に青・緑を彩色する濃絵だみえの豪華な障壁画が描かれ」(166頁)ました。

ハと二は保留し、次はホを確認します。

幕府は大坂の役直後の1615(元和元)年に、大名の居城を一つに限り(一国一城令)、さらに武家諸法度を制定して大名を厳しく統制した。(171頁)

一国一城令を発したのは大坂夏の陣の後ですから、正しい文です。

残るは保留したハと二です。

まずはハです。「教科書」で小西行長が出てくるのは、165頁の掲載資料「文禄・慶長の役要図」で「小西行長の経路」と書かれた線が釜山から漢城を通って平壌までひかれているのと、170頁の脚注①で「石田三成・小西行長らは京都で処刑」とある部分の2つです。

これだけでは「文禄・慶長の役での責任を問われ城を没収された」の正誤判定はできません。「用語集」を見てみましょう。

小西行長 ⑧1558~1600 秀吉の武将。堺の豪商小西隆佐の子で、南肥後の領主。朝鮮出兵に活躍。関ヶ原の戦いに敗れて刑死した。キリシタン大名としても有名。(「用語集」153頁L)

「南肥後」に領主なら「熊本城」の築城はあり得ます。まだ判定できません。次に熊本城をみてましょう。「用語集」にある熊本城は明治の西南の役にかかわる熊本鎮台しかありませんが、築城者の名は別の項でわかります。

加藤清正 ⑧1562~1611 秀吉子飼いの武将で朝鮮出兵に活躍。関ヶ原の戦いでは領国肥後に留まる。秀頼の安泰を図ったが急死。大坂城・熊本城の築城でも有名。(同上)

熊本城を築城したのは小西行長ではなく、加藤清正でした。したがって不適切です。もちろん自分の城でないものを没収されることはありません。その後の熊本城は加藤清正の子加藤忠広が1632年に改易され、細川氏の居城となります。

残る正しい文でした。伏見城といえば豊臣秀吉の築城だと記憶している人が多いでしょうから、この選択肢は判断が難しい問題でした。

③ 秀吉は、晩年に伏見城を築いてそこに住んだが、のちその城跡に桃が植えられたので、この地を桃山と呼ぶようになった。(165頁 脚注③)

関ヶ原の戦いの前哨戦で焼失した後、徳川家康が再築城して居館とします。そして、のちに破壊されて、都久夫須麻神社本殿・唐門や西本願寺書院などが伏見城の遺構とされています。

「用語集」にも家康による再築城はなく、家光の上洛時や慶喜の大政奉還に二条城が使用されたことから、不適切だと判断した人もいるのではないでしょうか。


△問4 戦国大名の領国経営に関して 不適切2つ

イ 上杉謙信は、直線的で高低差をおさえた棒道という軍事用道路を整備した。
ロ 武田信玄は、釜無川と御勅使川との合流地点に堤を造成する治水事業を行なった。
ハ 戦国時代には甲斐・伊豆などの金山、石見・但馬などの銀山で生産量が増えた。
二 戦国大名による指出検地では、過少申告が多く基準も統一されていなかった。
ホ 戦国大名は、鉄砲の他国流出を避けるため、関所管理を強化した。

戦国大名の領国経営に関する問題です。また「不適切2つ」問題です。

まずは「教科書」で正誤判定が可能なものを先に見ていきます。

の武田信玄による治水事業は「信玄堤」と呼ばれるもので、正しい説明です。

⑥ 武田信玄は治水事業に力を注ぎ、甲斐の釜無かまなし川と御勅使みだい川の合流点付近に信玄堤と呼ばれる堤防を築いた。(150頁 脚注⑥)

の戦国大名による鉱山の開発についての文も正しい説明です。戦国大名は領国内の鉱山を開発することで金や銀を獲得し、それを武器などの物資と交換することで経済力と軍事力を拡大させていきました。

⑤ 戦国大名による鉱山開発は、精錬技術。採掘技術の革新をもたらし、とくに金・銀の生産を飛躍的に高めた。甲斐・駿河・伊豆の金山、石見・但馬の銀山などが有名である。(150頁 脚注⑤)

次にです。こちらは不適切な説明文になっています。戦国大名は経済力を高めるために領内での商取引を渙発にしようと考えました。そのための施策が、関所の廃止や楽市楽座です。織田信長のものが有名ですが、他の戦国大名も実施したことです。

 また戦国大名は城下町を中心に領国を一つのまとまりをもった経済圏とするため、領国内の宿駅や伝馬の交通制度を整え、関所の廃止や市場の開設など商業取引の円滑化にも努力した。(150-151頁)

「教科書」で正誤判定できるのはここまでです。

は「棒道」が「教科書」にも「用語集」にもなく判定不能です。

は、戦国大名による検地が自己申告制の指出検地さしだしけんちだったことは「教科書」150頁の脚注②でわかりますが、「過少申告が多く」「基準も統一されていなかった」がわかりません。のちの太閤検地が「新しい基準」で「統一」して実施された(162頁)ことから、推測することはできますが、確定はできません。こちらは「用語集」で「過少申告も多く、基準も統一されていなかった」(「用語集」138頁L)とあります。

したがって、もう一つの不適切な文はということになります。

「棒道」は「信玄棒道」と呼ばれるもので、上杉謙信ではなく武田信玄が整備した軍用道路です。現在も山梨県の観光史跡となっています。


◎問5 江戸期の土木・建築事業について 不適切1つ

イ 諸大名は平時において、江戸城修築や河川工事などの御手伝普請を幕府に課せられた。
ロ 江戸では、徳川家康の入府時に小石川上水(後の神田上水)が開設された。
ハ 町人が請け負った町人請負新田は、商業資本による新田農村の支配へとつながった。
二 田沼意次は、印旛沼の干拓に成功し、老中に取り立てられた。
ホ 播磨の赤穂などの瀬戸内海沿岸部では、高度な土木技術を要する入浜塩田が発達した。

江戸時代の土木事業からの出題です。不適切を一つ選ぶ問題ですが、問3や問4の「不適切2つ」に比べると、はっきりとした誤りを見つければそれで終わるので御しやすい問題です。

が明らかな誤文です。田沼意次は10代将軍徳川家治の時代に側用人から老中になります。1772(安永元)年から失脚する1786(天明6)年までを田沼時代とも呼びます。

田沼意次は商業を活発にすることで幕府財政を再建しようとし、株仲間結成の奨励や貨幣改鋳などに取り組みます。

さらに意次は、江戸や大坂の商人の力を借りて印旛沼・手賀沼の大規模な干拓工事④を始めるなど、新田開発を積極的に試みた。(223頁)

印旛沼干拓工事は田沼意次が老中になってから取り組んだ事業です。その点ですでに二は不適切です。

④ 工事はほぼ完成に近づいたが、利根川の大洪水で挫折した。(同頁 脚注④)

そもそも干拓工事が成功していません。文の中に不適切な要素が2つも含まれていると、さすがに特定が楽です。

そういうわけで、残りの4つはすべて正しい文でした。

諸大名は戦時には「将軍の命令で出陣し、平時には江戸城などの修築や河川の工事などの普請役を負担」(171頁)しました。この平時の普請役を御手伝普請といい、大名にとっては大きな負担となりました。とくに島原の乱以降は軍役がほぼなくなるため、御手伝普請のみがいわゆる「奉公」になりました。薩摩藩島津氏がおこなった宝暦治水などが知られます。

ロの「小石川上水」については「教科書」「用語集」ともに記載なし。

ハですが、「有力な都市商人が資本を投下して開発する町人請負新田が、17世紀末から各地にみられ」(191頁 脚注②)ました。商人たちは新田農村へ影響力を強め、「都市商人の資金を背景に、特産物である商品作物の生産や加工・運輸が広く組織」(241頁)されるようになり、「19世紀に入ると、一部の地域では」「分業と協業による手工業生産」(同上)も始まります。

ホの塩田については、「製塩業では高度な土木技術を要する入浜塩田が発達し、瀬戸内海の沿岸部をはじめとして各地で塩の生産がおこなわれた」(205頁)とありまず。「播磨の赤穂」については「用語集」175頁で確認できます。


今回はここまでです。




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