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教科書だけで解く早大日本史1-1 社会科学部2020

 10年ほど前に名古屋の個別指導学習塾で日本史を教えていたころ、早稲田の日本史を教科書だけで解いたらどのくらい正解できるのかをすべての学部で調べたことがあります。
 コロナで自粛が続く中、久しぶりにこの調査に乗り出そうと思います。
 のんびりやっていきますので、興味を持たれた方はお付き合いください。

はじめに

 第1回は2020年度の社会科学部です。女優の小川範子さんや声優の悠木碧さんの出身学部としても知られる社会科学部(通称=社学)ですが、昼学部になって以降、難易度が急上昇しています。「社学のシャシャシャ」などとからかわれていたのはもう昔の話ですねえ。では、早速みていきましょう。

※なお、入試問題については三大予備校のサイトなどでご確認ください。ぜひ、自分で問題を解いてから読んでいただけると嬉しいです。

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代ゼミ(問題は掲載終了)

 今年は全問テーマ史で出題されました。大問1は地方制度についての出題でした。

◎問1 ヤマト政権の地方支配に関する正誤問題です。不適切が一つ。

イ 国造に任じられた地方豪族は、その地方の支配権をヤマト政権から認められた。
ロ 地方豪族は大王に舎人・采女を出仕させた。
ハ 磐井の乱が制圧された。
二 地方豪族は屯倉を設けた。
ホ 地方豪族は名代・子代の部を管理した。

 ニが明らかに不適切です。屯倉はヤマト政権の直轄領として地方に設けられたものです。残りはすべて適切です。
 ただ、ここで大切なのは教科書に記載があるかどうかです(説明が後になりましたが教科書は山川出版社の詳説日本史Bを使います)。

 第1章の最後、「ヤマト政権と政治制度」という項の終わりに

「大王権力の拡大に関しては、地方豪族の抵抗もあった。とくに6世紀初めには、新羅と結んで筑紫野国造磐井が大規模な反乱をおこした。大王軍はこの磐井の乱を2年がかりで制圧し、九州北部に屯倉を設けた。ヤマト政権はこうした地方豪族の抵抗を排しながら彼らを従属させ、列島各地に直轄領としての屯倉や、直轄民としての名代・子代の部を設けていった。6世紀には地方豪族は国造に任じられ、その地方の支配権をヤマト政権から保障される一方、大王のもとにその子女を舎人・采女として出仕させ、地方の特産物を貢進し、屯倉や名代・子代の部の管理をおこない、軍事行動にも参加するなどして、ヤマト政権に奉仕するようになった。」

とあります。この項にすべての正解が含まれます。九州北部の屯倉は「糟屋の屯倉」といわれるもので「屯倉のはじめ」とされ、献上したのは磐井の子である葛子と『日本書紀』にあります。このあたりは武烈朝から継体朝への皇統の移動、磐井と新羅との関係など興味が尽きないのですが、趣旨が違うので省きます。
 教科書の本文記述で完答できますので、◎です。

〇問2 改新の詔(646)から大宝律令(701)の間の出来事です。不適切を2つ。

イ 地方に設置された評には、中央から官人が派遣された。
ロ 八色の姓が定められた。
ハ 富本銭が鋳造された。
ニ 天武天皇は庚寅年藉を作成した。
ホ 50戸を単位とする里がつくられた。

 間違いはイとニ。ロ、ハについては教科書に明確に記述がある。「684年には八色の姓を定めて…」「7世紀の天武天皇時代の富本銭に続けて…」これらは中学レベル。ニは天武天皇の跡を継いだ持統天皇が690年に庚寅年藉を作成したと説明があり、誤りが明らか。
 問題はイ、ホである。イの地方に設置された「評」については、郡評論争も過去の話で教科書にしっかりと大宝律令以前の「評」の存在について書かれている。ただ、「中央から官人が派遣された」については?郡司は元・国造である地方豪族が任じられたことは書かれているが、評の時代もそうであったかどうかに関しては言及がない。郡司と同じであれば×と推測はできる。
 また、同じく、50戸を1里とするのは律令制のところで言及があるが、改新の詔と大宝律令の間の期間もそうであったかどうかまでは記述がない。戸籍・計帳の作成の流れから庚午年籍、庚寅年藉の頃からそうであったのではないか、と推測できるだけである。

 結果、教科書記述だけでは正答にたどりつけないが十分に推測可能という評価で〇

◎問3
 大宝律令(701)より後の出来事で不適切1つ。

イ 郡司には伝統的な地方豪族が任じられた。
ロ 出羽国がおかれた。
ハ 大野城が築かれた。
ニ 郡家には正倉がおかれた。
ホ 人民を戸籍・計帳に登録した。

 イについては様々なところで言及されており、問2の推測の根拠ともなっているため〇。ホも「民衆は戸主を代表者とする戸に所属する形で戸籍・計帳に登録」とあり、明らかに〇。
 またニについては正倉と明確な記述はないが、「郡家(郡衙)も、国府と同様に郡庁・役所群・郡司の居館・倉庫群などの施設をもち…」とあり誤りとするには判断が早い△。
 ロは「日本海側に712(和銅5)年に出羽国がおかれ」とあり〇。続けてある、秋田城や多賀城との違い、先行する渟足柵・磐舟柵なども含め位置関係と年代を確認しておきたい。
 不適切なものはハ。大野城は663年白村江の戦で大敗したのち、唐と新羅の連合軍の襲来を防ぐために九州の要地を守るために設置されたもの。対馬から大和にかけては朝鮮式山城が築かれたこと、近江へ遷都したこと、律令制の整備を急いだことなどと合わせて外圧からの変化を覚えておきたい。当然、大宝律令より前となり不適。
 ニが微妙だが、ハの不適が明らか◎。

◎問4 寄進地系荘園に関して、不適切1つ。

イ 田堵は権利を強めて名主とよばれるようになった。
ロ 国免荘は朝廷から税の免除を認められた荘園である。
ハ 開発領主は所領を有力者に荘園として寄進し、みずからは荘官となった。
ニ 寄進を受けた有力者を領家という。
ホ 多くの荘園を所有した大寺院は僧兵を組織して、朝廷に強訴した。

 ロが明らかに不適です。ただし、国免荘に関する記述は本文ではなく欄外注です。「政府の出した太政官符や民部省符によって税の免除が認められた荘園を官省符省と呼び、国司によって免除を認められた荘園を国免荘と呼んだ」とあります。したがって、ロでは「朝廷から」ではなく「国司から」とあれば適切でした。
 イはやや難しいのですが、荘園の成り立ちの説明のところで、国司(受領)から耕作を請け負った有力農民が田堵、課税の対象となる田地を名という単位にわけ、それぞれの名には負名と呼ばれる請負人の名がつけられたこと、が本文にあります。欄外注には田堵の中には勢力を伸ばして大名田堵と呼ばれるものもあらわれた、とあります。そして、やや飛んで院政期の荘園公領制の説明のところで「田堵らは名の請負人としての立場から権利を次第に強めて名主と呼ばれた」とあり、正解となります。
 ハ、ニは先程の荘園の成り立ちのところに明確な記述があります。開発領主が寄進し、自らは預所・下司などの荘官になったこと、寄進受けた領主は領家、上級の領主は本家と呼ばれたことが書かれています。
 ホは院政期の記述に「大寺院も多くの荘園を所有し、下級僧侶を僧兵として組織し、国司と争い、神木や神輿を先頭に立てて朝廷に強訴して要求を通そうとした」とあります。欄外注には「鎮護国家をとなえていた大寺院のこうした行動は、法によらず実力で争うという院政期の社会の特色をよく表している」と説明され、同じ鎮護国家でも奈良仏教(南都六宗)との違いが示されています。

 さて、解答根拠が欄外注であるため〇としたいところですが、適切選択肢がすべて本文に根拠があるので◎評価です。

◎問5 公領に関して不適切1つ。

イ 国司は公領内を郡・郷・保に再編成した。
ロ 郡家に田所・税所を整備した。
ハ 遥任とは、国司が現地に赴任せずに収入のみを受け取ることである。
ニ 成功は売官の一種である。
ホ 上級貴族の中には知行国主として公領から収益を得たものもいた。

 イ、ロについて「国司は支配下にある公領で力を伸ばしてきた豪族や開発領主に対し、国内を郡・郷・保などの新たな単位に再編成し、彼らを郡司・郷司・保司に任命して徴税を請け負わせた。また、田所・税所などの国衙の行政機構を整備し、代官として派遣した目代の指揮のもとで在庁官人に実務をとらせた」とあります(問4の田堵の説明の前段)。ここからイの適切、ロの不適がわかります。郡家ではなく国衙が正しい。本文中にある目代とは任国に向かわない国司が派遣した代理で、国司は都で収入だけを受け取りました。これを遥任といいます。したがってハも適切。
 朝廷の儀式や寺社の造営などを自腹で請け負い、その見返りとして収入の多い国の国司に任命してもらうことを成功(じょうごう)といいます。再び同じ国の国司になることを重任(ちょうにん)といいます。どちらも売官です。
 ホの知行国主とは院政期に始まった制度で、上級貴族が知行国主として一国の支配権を与えられ、その国からの収益を取得しました。僧兵の強訴の記述のある段落の欄外注に説明があります。

 太字でもない田所・税所という用語が国衙にあるということ(郡家は衰退していた)を知らないと解けないとはいえ、まぎれもなく教科書本文の記述から判断可能ということで〇に限りなく近い◎。

 さて、大問1は10問構成(社学は大問がすべて10問構成)ですが、さすがにこのペースで40問を一気に読むのは読者の方も大変でしょう。とりあえず第1回は大問1の問5までとします。

 次回、問6から問10までをお待ちください。

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