見出し画像

教科書だけで解く早大日本史 2021文化構想学部 10

2021文化構想学部編の第10回です。今回から最終〔Ⅳ〕に入ります。日本における貿易というテーマでの出題でした。

※大学公式ページで問題を確認してください。

※東進データベースは要登録です。

◎1 遣唐使に関連して、804年に唐に渡り、帰国後に『顕戒論』を著し、南都の諸宗に反論した人物

ア 空海  イ 最澄  ウ 円珍 
エ 円仁  オ 玄昉

選択肢から正しい人物を選ぶ問題です。

最澄は近江出身で近江国分寺や比叡山で修学し、804(延暦4)年遣唐使に従って入唐、天台の教えを受けて帰国して、天台宗を開いた。彼はそれまでの東大寺戒壇における受戒制度に対して、新しく独自の大乗戒壇の創設をめざした。これは南都の諸宗から激しい反対を受けることとなり、最澄は『顕戒論』を著して反論した。(65頁)

教科書(山川 詳説日本史B)にあるように、804年に入唐し、帰国後に『顕戒論』を著して、南都の諸宗に反論した人物は「最澄」(伝教大師)です。

最澄の死後、大乗戒壇の創設が認められ、浄土教の源信や鎌倉仏教の開祖たちが比叡山延暦寺で教えを学びました。

それ以外の人物も確認しておきましょう。

アの空海(弘法大師)は讃岐の人。最澄と同じ804年に遣唐使に従って入唐し、紀伊の高野山に金剛峯寺を立てて真言宗を開きます。空海が嵯峨天皇から賜った東寺(教王護国寺)も、都の密教の根本道場となります。唐書に優れ、嵯峨天皇・橘逸勢とならんで三筆と称されました。著書に『三教指帰』『性霊集』『文鏡秘府論』『十住心論』など。庶民教育のための綜芸種智院を開く。讃岐の満濃池を築く。

ウの円珍(慈覚大師)、エの円仁(智証大師)はともに最澄の弟子で入唐した天台宗の僧です。

円仁が838(承和5)年に渡唐し、密教を学び847(承和14)年に帰国するまでの苦労の記録が『入唐求法巡礼行記』である。10世紀末以降、円仁の門流は延暦寺に拠って山門派と呼ばれ、円珍の門流は園城寺(三井寺)に拠って寺門派と呼ばれ、両者は対立した。(65頁 脚注②)

円仁は第三代天台座主、円珍は第五代天台座主。円珍の入唐中の巡礼記は『行歴記』(抄本に『行歴抄』)があります。

オの玄昉は奈良時代の僧。遣唐使から帰国後、橘諸兄政権で活躍しますが、藤原仲麻呂の台頭で筑紫観世音寺に左遷されます。

◎2 摂津の( A )を修築して貿易を振興

漢字指定の空欄補充問題です。

宋の時代になると、平忠盛は日宋貿易に着手し、その息子は摂津の( A )を修築して貿易を振興し、自らの政権の経済基盤とした。

リード文は上記のようになっています。

平氏の経済的基盤は、全盛期には日本全国の約半分の知行国や500にのぼる荘園であり、さらに平氏が忠盛以来、力を入れていた日宋貿易もある。
(中略)
これに応じて清盛は、摂津の大輪田泊(神戸市)を修築して、瀬戸内海航路の安全をはかり、宋商人の畿内への招来にもつとめて貿易を推進した。この清盛の積極的な対外政策の結果、宋船のもたらした多くの珍宝や宋銭・書籍は、以後の日本の文化や経済に大きな影響を与え、貿易の利潤は平氏政権の経済的基盤となった。(92頁)

やや長い引用になりましたが、正解は「大輪田泊」です。

なお、早大では清盛が瀬戸内海に開いた「音戸の瀬戸」(広島県呉市)が出題されたこともありますので、場所をしっかりと確認してから解答するようにしてください。

〇3 天龍寺建立を足利尊氏にすすめた人物で西芳寺庭園の作庭でも知られる人物は誰か

漢字4字指定の記述問題です。

足利尊氏・直義兄弟は夢窓礎石の勧めで、後醍醐天皇の冥福を祈るため天龍寺を建立しようとし、その造営費用調達のために1342(康永元)年天龍寺船を元に派遣した。これは鎌倉幕府が1325(正中2)年建長寺修造の資金を得ようと元に派遣した建長寺船の先例にならったものである。また、1976(昭和51)年に韓国新安沖で発見された沈没船(新安沈船)は、14世紀前半に元から日本に向かう途中で遭難した貿易船と推定されている。(127頁 脚注①)太字は引用者による

元寇以後、元との間には正式な貿易船のやり取りはありませんでしたが、私的な商船の往来は盛んにありました。なかでも禅宗寺院の修繕費用の確保を目論んだ建長寺船、東福寺船などがありました。尊氏・直義の兄弟が夢窓礎石の勧めで派遣した天龍寺船もそうした元との私的貿易船の一つです。もっとも天龍寺船も含めて幕府側からは公式の許可が下りている貿易船です。天龍寺船は1341年に直義が博多商人至本を船主に任命し、翌年派遣されました。

ということで、正解は「夢窓礎石」です。

夢窓礎石は、後醍醐天皇、足利尊氏らが帰依した臨済宗の僧で、天龍寺の開祖です。京都西芳寺の作庭でも知られる人物です。

鎌倉中期以降、権力者は大陸から招いた臨済宗の僧に帰依して、外交・政治の顧問とする例が多くみられます。

北条時頼=蘭渓道隆(建長寺)
北条時宗=無学祖元(円覚寺)
足利尊氏=夢窓礎石(天龍寺)
足利義満=春屋妙葩(相国寺)夢窓礎石の弟子

他には元寇後の北条貞時の時代に来日した一山一寧がいます。

また、五山文学の至高と言われる、絶海中津、義堂周信の2人も夢窓礎石の弟子にあたります。いずれも義満に重用されました。

◎4 室町幕府の管領に任じられた氏は 2つ選択

ア 斯波氏  イ 大内氏  ウ 赤松氏
エ 畠山氏  オ 山名氏

三管領・四職はさすがに基本問題です。

 幕府の機構も、この時代にはほぼ整った。管領は将軍を補佐する中心的な職で、侍所・政所などの中央諸機関を統轄するとともに、諸国の守護に対する将軍の命令を伝達した。管領には足利氏一門の細川・斯波・畠山の3氏(三管領)が交代で任命された。京都内外の警備や刑事裁判をつかさどる侍所の長官(所司)も、赤松・一色・山名・京極の4氏(四職)から任命されるのが慣例であった。(125-126頁)

正解は、アの斯波氏、エの畠山氏です。

斯波・畠山の両管領家の跡継ぎ争いは応仁の乱を引きおこす一因となります。

細川氏は初期から有力な管領家として君臨し、応仁の乱後は堺商人と結んだ南蛮貿易で利益を上げましたが、寧波の乱での敗退、三好氏による下克上で衰退します。

ウの赤松氏、オの山名氏は四職の方です。また、ウの大内氏は南蛮貿易で博多商人と結んだ守護大名で山口を拠点にした大名です。足利義満に応永の乱で討伐され堺の拠点を失いますが、16世紀半ばに陶晴賢に滅ぼされるまで有力守護大名として存続しました。

今回はここまでです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?