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教科書だけで解く早大日本史 2021社会科学部 9

1998年の新14号館と昼夜開講制への移行後、社学の人気は徐々にあがってゆき、2000年代後半には難易度も最高ランクに上昇しました。そして2009年に昼間学部へと移行します。


さて、今回から大問Ⅲです。明治維新から戦後10年までを「誰が政治を担うのか」という視点で問うています。

※大学公式ページで問題を確認してください。

※東進データベースは要登録です。

〇問1 文明開化に関連して 不適切2つ

イ 田口卯吉は『日本開化小史』を著した。
ロ 森有礼・西周らによって明六社が発足した。
ハ 中江兆民はJ.S.ミルの On Liberty を翻訳した。
ニ 加藤弘之は『人権新説』において馬場辰猪の『天賦人権論』を批判した。
ホ 本木昌造は鉛製活字の量産に成功した。

文明開化に関わる問題です。選択肢ごとにみていきましょう。

の田口卯吉と『日本開化小史』は正しい文です。

③ 日本史では、民間から田口卯吉の『日本開化小史』のような文明史論が現われて歴史観が革新された。また、東京帝国大学の史料編纂掛では、『大日本史料』『大日本古文書』など基礎史料の体系的な編纂事業が進められた。(311頁 脚注③)

「一問一答」的暗記ならば、田口卯吉=『日本開化小史』で済んでしましますが、引用部にある「歴史観が革新された」とはどういうことでしょうか。田口卯吉はギゾーの影響を受けており、ヨーロッパの文明史論の影響を受けた科学的研究が、「従来の国学者の研究を一新」(312頁)することになりました。「教科書」を読む際には、こうした細部の表現にも意識を向けると理解が深まります。

の森有礼・西周による明六社の発足も正しい文です。

森有礼・福沢諭吉・西周・加藤弘之・西村茂樹らの洋学者が、1873(明治6)年に明六社を組織して、翌年から『明六雑誌』を発行し、演説会を開いて封建思想の排除と近代思想の普及につとめた。(271頁)

メンバーは他に、中村正直、津田真道らがいます。明六社メンバーと著作や思想の問題は、前問でも出題されていた江戸の儒学者・洋学者・国学者・思想家とならんで頻出の分野です。全員紹介したいところですが、今回は2人以外は省きます。

森有礼は明六社創立を発議した人物で、第1次伊藤内閣の文部大臣。幕末には「薩摩藩からイギリスに留学」(260頁 脚注①)しています。「1886(明治19)年に森有礼文部大臣のもとでいわゆる学校令が公布」(310頁)。1889(明治22)年、大日本帝国憲法発布の日に刺され、翌日死去しています。

西周は「洋書調所の教官」で津田真道とともに「オランダに留学」しました(260頁 脚注①)。国際法を訳した『万国公法』のほか、軍人勅諭(1882年発布)の起草など。

の中江兆民は岩倉使節団に同行してフランスへ留学し、ルソーの『社会契約論』の一部を漢訳した『民約訳解』や『三酔人経綸問答』などの著作がある人物です。J.S.ミルの On Liberty(『自由論』)を翻訳したのは中村正直です。「中村正直訳のスマイルズの『西国立志編』やミルの『自由之理』などが新思想の啓蒙書としてさかんに読まれ」(269頁)ました。不適切です。

は批判の前後が反対で不適切です。加藤弘之の『人権新説』に馬場辰猪が『天賦人権論』で反論したのが正しい。

③ (略)。また、加藤弘之が社会進化論の立場から『人権新説』で民権派の天賦人権論に批判を加えると、馬場辰猪が『天賦人権論』を、植木枝盛が『天賦人権弁』を出して反論した。(278頁 脚注③)

加藤弘之は『真政大意』『国体新論』『立憲政体略』で立憲政治や天賦人権論を紹介した啓蒙思想家で明六社のメンバーでしたが、のちに国家主義思想へと移行し、社会進化論の立場から『人権新説』で天賦人権論を批判しました。東京大学初代総理、帝国大学総長を歴任します。

馬場辰猪は高知出身の民権活動家で自由党幹部。『天賦人権論』で加藤弘之に反論しました。のち板垣外遊に反対して自由党を離党。

残るは正しい文です。

② 活版印刷の発達は、1869(明治2)年に本木昌造が鉛製活字の量産技術の導入に成功してからである。(271頁 脚注③)


◎問2 明治六年の政変後に起こった出来事 不適切2つ

イ 兵部省が陸軍省と海軍省に分離された。
ロ 前原一誠を指導者とする萩の乱がおこった。
ハ 徴兵令が公布された。
ニ 廃刀令が発布された。
ホ 台湾出兵が行われた。

明治六年の政変は征韓論論争で敗れた西郷・板垣ら留守政府の参議たちが政府を去った事件です。

征韓論が否決されると西郷隆盛・板垣退助・後藤象二郎・江藤新平・副島種臣らの征韓派参議はいっせいに辞職し(明治六年の政変)、翌1874(明治7)年から、これら士族の不満を背景に政府批判の運動を始めた。(274頁)

その後に起こった出来事として不適切、すなわち「明治六年」以前の出来事を選べばよいということです。

の兵部省が陸軍省と海軍省に分離されたのは、「1872(明治5)年」(264頁)です。

の前原一誠による萩の乱は、廃刀令と秩禄処分に対する各地の反乱に呼応して、1876(明治9)年におきたものです(275頁)。不平士族の反乱は明治六年の政変の後に頻発します。

徴兵令は岩倉使節団が外遊中に留守政府が実施したものです。

 近代的な軍隊の創設をめざす政府は、1872(明治5)年の徴兵告諭にもとづき、翌年1月、国民皆兵を原則とする徴兵令を公布した。(264頁)

徴兵令の公布は1873(明治6)年1月ですが、太陽暦への変更により、前年の1872(明治5)年は12月2日までしかなく、12月3日が明治6年の1月1日とされました。徴兵令の公布は明治六年の政変と同年ですが、それよりも前になります。

廃刀令1876(明治9)年です(275頁)。

台湾出兵1874(明治7)年です。きっかけとなった台湾での琉球漂流民殺害事件は1871(明治4)年です(273頁)。指揮を執ったのは西郷隆盛の弟西郷従道(のち海軍大臣、内務大臣などを歴任し、元帥。初期の元老メンバー)です。イギリス公使ウェードの調停により、日清互換条款を結び、解決します。

徴兵令は明治六年で判断が難しかったのですが、それ以外はすべて「教科書」本文で前後が確定できます。


△問3 土佐(高知)出身でない人物 2人

イ 植木枝盛
ロ 大井憲太郎
ハ 片岡健吉
ニ 河野広中
ホ 後藤象二郎

これはかなり厄介な問題です。明治時代の人物では薩摩と長州出身者は出身地が書かれていることが多いのですが、土佐はそれほど多くありません。選択肢のメンバーは自由党に関わる人々ですが、自由党は土佐出身の板垣退助が初代総理であり、土佐の立志社が源流であることから、土佐出身者が多くいました。

最初に出てくるのは、後藤象二郎です。土佐藩藩士で大政奉還に関わります。

土佐藩はあくまで公武合体の立場をとり、藩士の後藤象二郎と坂本龍馬とが前藩主の山内豊信(容堂)を通して将軍徳川慶喜に、討幕派の機先を制して政権の返還を勧めた。(258頁)

新政府では参与→参議で、征韓論で下野。民撰議院設立建白書を提出し、のち自由党の有力者として活動。1882(明治15)年、政府の策略で三井の援助で洋行し批判される。1887(明治20)年には星亨とともに大同団結運動を提唱したが、政府に切り崩され黒田内閣に入閣。1874年に高島炭鉱の払い下げを受ける(のち三菱が買収)。

つぎは、片岡健吉です。1874(明治7)年に板垣退助らと土佐で立志社を創設。1877(明治10)年には西南戦争のさなかに国会開設を求める意見書(立志社建白)を天皇に提出しようとしたが断念します(276、277頁)。立志社、国会期成同盟、自由党の幹部で、のち衆議院議長。立憲政友会にも参加します。

つづいて「教科書」にでてくるのは、植木枝盛です(277、278頁)。『民権自由論』『天賦人権弁』などの著作や私擬憲法の『東洋大日本国国憲按』が紹介されていますが、出身地は不明です。保留

大井憲太郎河野広中は自由党員の騒擾事件のところに登場します。

さらに翌1885(明治18)年には旧自由党左派の大井憲太郎らが、朝鮮にわたってその保守的政府を武力で打倒しようと企て、事前に大阪で検挙される事件がおこった(大阪事件)。(281頁)

すでに前年の加波山事件を受けて自由党は解党していました。大阪事件は大井憲太郎、景山(福田)英子ら130名余りが検挙される大事件でした。なお、「教科書」「用語集」では大井憲太郎の出身地は不明です。保留

最後に河野広中です。時系列は大阪事件よりも少し前にあった福島事件の関係者です。

② 福島事件は、県令三島通庸が不況下の農民に労役を課して県道をつくろうとしたことに対して農民が抵抗した事件で、福島自由党は訴訟などで間接に支援したにすぎなかった。しかし、三島がこの事件を口実に河野広中ら福島自由党員を大量に検挙したので、自由党の激化事件の最初として知られるようになった。秩父事件も旧自由党員の関わりは間接的なものであった。(281頁 脚注②)

河野広中は福島の自由党員です。福島事件で内乱罪に問われて入獄します。のち衆議院議長、農商務省(第2次大隈内閣)などを歴任しました。

保留にした植木枝盛と大井憲太郎のどちらかが土佐出身です。

植木枝盛 ⑦7⃣1857~92 高知出身の自由民権運動家。立志社に入り、自由党の理論家・活動家として、「東洋大日本国国憲按」や『天賦人権弁』などで民権思想の普及に努めた。1890年、衆議院議員に当選。自由党土佐派として活躍した。(「用語集」244-245頁)

土佐出身は植木枝盛でした。大井憲太郎は豊前国(大分県)の出身です。

やや長くなりました。今回はここまでです。


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