教科書だけで解く早大日本史 2021商学部 3
2021商学部編の第3回です。今回は1⃣の後半4問をみていきます。
※大学公式ページで問題を確認してください。(執筆時未掲載)
※東進データベースは要登録です。(執筆時未掲載)
◎問G 班田収授の体制を維持する施策に関連して、正しいもの
1. 諸国に押領使や追捕使を置いた。
2. 「処々の田荘を罷めよ」と命じる法令を出した。
3. 桓武天皇は、班田の期間を12年1班に改めた。
4. 聖武天皇は、雑徭の期間を年間30日から15日に半減させた。
5. 宇多天皇は、延喜の荘園整理令を出した。
前回みてきたように、8世紀後半から9世紀になると、浮浪・逃亡・偽籍が増え、徐々に班田収授の実施が困難になってきます。
桓武天皇は班田収授を励行させるため、6年ごとの戸籍作成にあわせて6年1班であった班田の期間を12年(一紀)1班に改めた。また、公出挙の利息を利率5割から3割に減らし、雑徭の期間を年間60日から30日に半減するなど、負担を軽減して公民たちの維持をめざした。しかし効果はなく、9世紀には班田が30年、50年とおこなわれない地域が増えていった。(63頁)
正解は3です。
桓武天皇は平城京時代に乱れた律令政治を立て直すため、遷都を含め様々な施策を実施します。特に国家財政悪化の原因を取り除くために勘解由使の設置、軍団の廃止をおこない、乱れた班田収授を整えるために、班田の期間を倍に延長します。しかし、一度乱れた班田収授は元に戻ることはなく、およそ100年後、醍醐天皇の時代に実施された延喜の班田が最後の班田となります。
4の「雑徭の半減」も「聖武天皇」でなく「桓武天皇」です。また、30日⇒15日ではなく、60日⇒30日です。
5の「延喜の荘園整理令」は「延喜」とあるように「醍醐天皇」の治世です。父の宇多天皇時の元号は「寛平」です。宇多天皇が醍醐天皇に譲位する際に示したのが「寛平御遺誡」です。醍醐天皇の治世は「延喜の治」と呼ばれます。
1の「押領使・追捕使」は「盗賊の追捕や内乱の鎮圧のために派遣」(82頁 脚注①)されたものです。
2の「処々の田荘を罷めよ」は「大化の改新の詔」です。
◎問H 受領と呼ばれる人々に関連して、正しいもの
1. 受領とは本来、国務を後任者に引き継いだ前任国司のことをいった。
2. 受領は、任地に派遣した在庁官人を介し、地元の目代らを指揮することがあった。
3. 受領は現地に赴任した国司の最高責任者をいい、掾や目が通例であった。
4. 国衙や受領の館は重要な役割を持っていたが、郡家の役割は衰えていった。
5. 受領以外の国司は、現地に赴任しても業務を行わない遥任が増えた。
10世紀に入ると戸籍・計帳の制度は崩れ、班田収授も実施できなくなり、祖・調・庸を基礎にした諸国や国家の財政は成り立たなくなりました。こうした事態の中で、9世紀末から10世紀前半にかけて国司の交替制度を整備して、「任国に赴任する国司の最上席者(ふつうは守)」に大きな権限と責任を負わせるようにしました。この国司が前任者から一国の財産などを受け継ぐことから「受領」と呼ばれるようになります(79頁)。
受領は、任地にみずからの郎党を率いて赴任し、強力な権力で徴税を実施し、私的な収入を確保しながら国家の財政も支えました。
③受領が勤務する国衙や居宅である館は、以前よりも重要な役割をもつようになり、その一方で、これまで地方支配を直接になってきた郡家(郡衙)の役割は衰えていった。(79頁 脚注③)
正解の選択肢は4です。従来は、交替制の国司よりも現地で世襲的に任じられる郡司の方が重要な役割をもっていましたが、地方実務を担当していた郡司は受領の無茶な命令に従わされるようになり、「尾張国郡司百姓等解」では、受領の横暴を訴えています。
1の「前任国司」は「後任国司」の誤りです(79頁)。
2は「在庁官人」と「目代」が逆です。
やがて11世紀後半になると、受領も交替の時以外は任国におもむかなくなり、かわりに目代を留守所に派遣し、その国の有力者が世襲的に任じられる在庁官人たちを指揮して政治をおこなわせるようになった。(80頁)
3は「掾や目が通例」が誤りです。「ふつうは守」(79頁)です。
5の「遥任」は「受領以外の国司」が「赴任せずに、国司としての収入のみを受け取ること」(80頁)です。「現地に赴任しても」が誤りです。
正解の4については脚注に依拠していますが、それ以外の誤りはすべて本文で確認できますので◎評価です。
◎問I 官物・臨時雑役に関連して、正しいもの
1. 課税対象となった田地は、検田使の入部を拒否できた。
2. 官物が田地の広さに応じて賦課されていた。
3. 官物は祖・庸・調とは別に賦課された。
4. 臨時雑役は公出挙の系譜を引く税とみられる。
5. 臨時雑役は力役(夫役)を除く臨時の諸課役である。
下線部リにある、官物と臨時雑役とは何かを教科書で見てましょう。
受領は、有力農民(田堵)に田地の耕作を請け負わせ、祖・調・庸や公出挙の利稲の系譜を引く税である官物と、雑徭に由来し本来力役である臨時雑役を課すようになった。課税の対象となる田地は、名という徴税単位に分けられ、それぞれの名には、負名と呼ばれる請負人の名がつけられた。こうして、戸籍に記載された成人男性を中心に課税する律令体制の原則は崩れ、土地を基礎に受領が負名から徴税する体制ができていった。(79頁)
官物は祖・庸・調・公出挙の系譜を引く税、臨時雑役は雑徭に由来する税で、律令制の人頭税から土地を基準にした課税になりました。
まずは、4と5が誤りです。また、祖・調・庸の体制はすでに崩壊しており、「別に賦課された」とする3の誤りも明らかです。
2の「官物が田地の広さに応じて賦課」は正しい文だと考えられます。課税対象の田地が「名」という徴税単位に分けられたことは書かれていますので、広さに応じて賦課されたと考えるのが自然です。
最後に、1の「検田使」ですが、こちらは国衙が「国内の耕作状況を調査し、官物や臨時雑役の負担量を定めるために派遣される使者」のことです。「課税対象となった田地は、検田使の入部を拒否できた」は誤りです。「課税対象となった田地」ではなく荘園領主の権力によって「不入の権」を認められた荘園のことです。
○問J 藤原陳忠の話があるもの
1. 『今昔物語集』
2. 『栄華物語』
3. 『小右記』
4. 『土佐日記』
5. 『尾張国郡司百姓等解』
「受領は倒るるところに土をつかめ」といったという藤原陳忠の話がのっているのは、1の『今昔物語集』です。
①信濃守藤原陳忠が、谷底に落ちてもそこに生えていた平茸をとることを忘れず、「受領は倒るるところに土をもつかめ」といったという『今昔物語集』の話などは、受領の強欲さをよく物語っている。(80頁 脚注①)
2の『栄華物語』は宇多天皇から堀川天皇までの約200年間を編年体で書いた歴史物語。藤原道長の栄華を賛美し、『大鏡』と比べて批判精神に欠けると指摘される。著者は赤染衛門ともいわれています。
3の『小右記』は藤原実資の日記。道長の「この世をば…」の和歌のエピソードがみられる。藤原実資の家系は小野宮家であり、実資が右大臣だったため、小野宮右大臣の日記⇒『小右記』。どちらかといえば道長に批判的だが、頼通には好意的。
4の『土佐日記』は高1の古文でも習う紀貫之の日記
5は問Hで既出。
1⃣はここまでです。◎8〇1△1でした。教科書の記述に沿った問題が多かった印象です。
次回から2⃣に入ります。室町時代初期の出題です。
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