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教科書だけで解く早大日本史 2021商学部 9

2021商学部編の第9回です。3⃣の残り4問をみていきます。

※大学公式ページで問題を確認してください。執筆時未掲載

※東進データベースは要登録です。執筆時未掲載

△問G 豪農について 誤っているもの

1. 村役人でもあった豪農に対する不満は、しばしば村方騒動としてあらわれた。
2. 村に居住しながら商売を行う豪農が登場する背景には、商品経済の発達があった。
3. 豪農の中には、地域の政治・経済を担う責任者として、領主から名字帯刀を許される者がいた。
4. 豪農を中心に、多くの村々共通の規則を取り決めることがあった。
5. 世直し一揆では豪農が頭取となって一揆を主導した。

有力な百姓が地主へ成長し、さらに豪農となっていく過程については前回説明した通りです。商品経済と貨幣経済の農村部への浸透が、百姓間の格差を生み出していきました。

彼ら(※地主 引用者)は村々において商品作物生産や流通・金融の中心となり、地域社会を運営する担い手となった。こうした有力百姓を豪農と呼ぶ。(中略)こうして村々では、自給自足的な社会のあり方が大きくかわり、村役人を兼ねる豪農と、小百姓や小作人らとのあいだの対立が深まった。そして村役人の不正を追及し、村の民主的で公正な運営を求める小百姓らの運動(村方騒動)が各地で頻発した。(221頁)

選択肢1、2は正しい文です。

3、4については教科書で確認できませんが、いずれも正しい文です。豪農の中には名字帯刀を許された者もおり、幕府や諸藩の支配体制を下支えしました。また、数十カ所の村を支配する大庄屋なども存在しました。

誤っているのは、5です。

世直し一揆は幕末に江戸・大坂をはじめ全国で起きた「百姓一揆」で、開港後の物価上昇から生活が困難になった百姓等が「世直し」を叫んで都市の米屋や村役人の屋敷を打ちこわしました。豪農は村役人を兼ねているわけですから、百姓一揆側にとってみれば打倒対象です。武州世直し一揆や信達一揆など江戸時代最高の一揆件数となりました。

◎問H 江戸時代の民衆運動の中で合法運動に該当するもの

1. 全藩一揆
2. 惣百姓一揆
3. 国訴
4. 打ちこわし
5. 強訴

近世の百姓一揆にはさまざまな形態がありました。

17世紀初頭には武装蜂起や逃散などの中世の一揆の名残がみられましたが、17世紀後半になると、「村々の代表者が百姓全体の要求をまとめて領主に直訴する一揆(代表越訴型一揆)」が増え、17世紀末には「広い地域にわたる大規模な惣百姓一揆」も各地でみられるようになります(222頁)。これが藩全域に広がった場合を全藩一揆と呼び、「1686(貞享3)年の信濃松本藩の嘉助騒動、1738(元文3)年の陸奥岩城平藩の元文一揆などがあげられ」ます(222頁 脚注③)

幕府や諸藩は一揆の要求を一部認めることはありましたが、基本的には武力によって弾圧し、一揆の指導者は厳罰に処されました(磔茂左衛門ら)。しかし、厳しい弾圧の中でも一揆は増加し続けました。

享保期以降、都市部では米商人が襲撃される打ちこわしが頻発します。飢饉が発生するたびに大規模な一揆と打ちこわしがおこりました。

選択肢の中の、「全藩一揆」「惣百姓一揆」「打ちこわし」「強訴」に関しては、いずれも非合法な抵抗運動になります。「強訴」は力で無理やり訴えることで「越訴」の一種です。

3の「国訴」だけが合法的な訴訟運動でした。

 また、畿内を中心に、菜種・綿・金肥などをめぐり、生産地の百姓や在郷商人が、自由な流通を求め大坂の株仲間などによる流通支配に反対し、国や郡全体の広い範囲を巻き込む大規模な訴訟闘争をおこした。これを国訴と呼ぶ。(241頁)

百姓一揆や打ちこわしが非合法であったのに対し、国訴は正式な訴訟闘争でした。

教科書に「合法」との記述はありませんが、一揆が武力で鎮圧されて、指導者が厳罰となっているということから、3以外はすべて非合法だと判断できますし、国訴は「訴訟闘争」と書かれているように、裁判で争うわけですからルールに基づいていると解釈できます。

ここは◎評価とします。

◎問I 『世事見聞録』(1816年)が成立する前の出来事

1. 異国船打払令発令
2. ゴローウニン事件
3. 加茂一揆
4. 生田万の乱
5. 三方領知替え反対一揆

年代判定の問題です。

1.  異国船打払令発令 1825(文政8)年 (237頁)
2. ゴローウニン事件 1811(文化8)年 (236頁 脚注①)
3. 加茂一揆 1836(天保7)年 (238頁)
4. 生田万の乱 1837(天保8)年 (238頁)
5. 三方領知替え反対一揆 1840(天保11)年 (240頁)

以上の通りです。

ゴローウニン事件が最も古く1811年です。ラクスマンが根室に来航したのが寛政期(1792年)、レザノフが信牌を持参して長崎に来航、通商を拒否されて樺太や択捉を砲撃したのが1804年でした。ゴローウニン事件と高田屋嘉兵衛の抑留事件後、ロシアとの関係は落ち着きます。

19世紀初頭、ヨーロッパではナポレオン戦争があり、オランダの力が衰えます。それに乗じてイギリス船が日本各地に出没するようになり、長崎に侵入するフェートン号事件(1806年)、常陸大津浜上陸(1824年)などがおこります。それに対応して1825年に発令されたのが異国船打払令でした。

残る3つはいずれも天保期のものです。

×問J この史料の引用部分に書かれていないこと

1. 近年、下層の百姓が上層の百姓から吸い上げられ、ますます両者の格差が大きく開いている。
2. 百姓が一揆をおこすのは、領主から収奪されているからだけではなく、上層百姓が貪っているからだ。
3. 繁華なところでは種々の仕事もあるだろうが、百姓は農業一筋であるため、それがうまくいかなければ他国へ出るしかない。
4. 下層の百姓が困窮するのは、勤勉・分相応などの道徳心に欠けるからであり、自己責任だ。
5. 富裕な百姓は田畑を増やし、次男・三男を分家に出すほど余裕がある。

 史料の読み取り問題ですので教科書だけでは解答不能です。執筆時には史料が未掲載ですので、赤本などで確認していただければ幸いです。

4以外については、すべて史料から読み取れる内容になっています。

4の下層の百姓が困窮する原因については、2で「上層百姓が下層百姓を貪っているから」とあるのが原因です。

「必ずその土地に有余のものあつて大勢の小前を貪るゆゑ、苦痛に迫りて一揆など企つるなり。」

と史料にある通りです。

3⃣はここまでです。最後は史料読み取り問題でしたので×になりましたが、全体では、◎6〇2△1×1という結果でした。

次回からは4⃣に入ります。明治中期の内閣をめぐる問題です。



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