教科書だけで解く早大日本史 2021商学部 1
今回から新シリーズです。2021商学部をみていきます。2020年版はこの商学部の途中で力尽きてかなり間が空いてしまいました。何しろ商学部は全学部の中で唯一、大問が6題あり、小問も60問(59問)と長丁場です。今回は全18回の予定です。
※大学公式ページで問題を確認してください。(執筆時未掲載)
※東進データベースは要登録です。(執筆時問題未掲載)
〇問A 縄文晩期、北部九州の水田遺跡
1. 長崎県の板付遺跡
2. 熊本県の吉野ケ里遺跡
3. 佐賀県の菜畑遺跡
4. 大分県の須玖岡本遺跡
5. 福岡県の砂沢遺跡
大学公式ページにも東進データベースにも問題が未掲載(2021/8/13時点)ですので、赤本などで問題を入手してください。こちらの連載は解答解説ではなく、教科書で解けるかどうかの分析が主旨ですので、問題文の掲載などは必要な引用以外ではいたしません。
さて、下線部イは「縄文時代の晩期、北部九州で水田による米作りが始まった」となっています。
①佐賀県の菜畑遺跡、福岡県の板付遺跡など西日本各地で縄文時代晩期の水田が発見され、この時期に水稲農耕が始まっていたことが知られる。このように一部で稲作が開始されていながら、まだ縄文土器を使用している段階を、弥生時代の早期ととらえようとする意見もある。(15頁 脚注①)
正解は、3の「佐賀県の菜畑遺跡」です。他の選択肢はすべて所在地の県名が誤りです。
1の板付遺跡は福岡県です。こちらは縄文晩期~弥生前期の遺跡です。水田が発見されているのは引用の通りです。
2の吉野ケ里遺跡は佐賀県です。こちらは弥生前期の大規模の環濠集落の遺跡で20世紀末の発見時には「邪馬台国の所在地か?」と話題になりました。
4の須玖岡本遺跡は福岡県です。甕棺墓が発掘され、奴国の王墓であったと考えられています。
5の砂沢遺跡は青森県弘前市です。弥生時代前期の水田跡で、東日本最古の水田跡とされています。青森県内の弥生中期の水田跡には垂柳遺跡があります。
教科書脚注を根拠に解答できましたので、〇評価です(本文のみなら◎、「用語集」なら△、それ以外は×)。
◎問B 古墳時代の農耕祭祀や呪術について正しいもの
1. 穢れや災いから逃れるために盟神探湯が行われた。
2. 5世紀頃、古墳の副葬品が武器・武具から鏡・玉など呪術的色彩の強いものとなった。
3. 亀の甲羅を焼き吉凶を占う太占が行われた。
4. 収穫を感謝し、秋に新嘗の祭りが行われた。
5. 銅鐸などの弥生時代以来の青銅製祭器が多く用いられた。
正しいものの「数」が指定されていませんが、大問の最初に「解答は最も適当なものを1つ選び、解答欄のその番号をマークせよ」とありますので、正解は1つということになります。
農耕に関する祭祀は、古墳時代の人びとにとってもっとも大切なものであり、なかでも豊作を祈る春の祈年の祭や収穫を感謝する秋の新嘗の祭は重要なものであった。弥生時代の青銅製祭器にかわって、古墳の副葬品にみられる銅鏡や鉄製の武具と農耕具が重要な祭器になり、5世紀になると、それらの品々の模造品を石などで大量につくって祭に用いるようになった。(31頁)
正解は、4です。春の祭が「祈年の祭」、秋の祭が「新嘗の祭」です。これらの祭は律令制下で制度化され、特に天皇代替わり後の最初の新嘗の祭は「大嘗祭」といいます。
引用にある通り、5は不適です。古墳時代には青銅製祭器にかわって、銅鏡や鉄製武具・農具が使用されていました。
また、2の古墳の副葬品についての文は、前後半が反対です。前期には「銅鏡や腕輪形石製品など呪術的・宗教的色彩の強いものが多く」あったのに対し、「中期になって、副葬品の中に鉄製武器・武具の占める割合が高くなる」(ともに24頁)というのが正しい。
1の「穢れや災いから逃れるため」の儀礼は「禊(みそぎ)や祓(はらえ)」です。「盟神探湯(くかたち)」は熱湯に手を入れて真偽を判定する神判で、謀反を疑われた竹内宿禰の盟神探湯で知られます。
また、3の「太占」の法は「亀の甲羅」ではなく「鹿の骨」を焼いて吉凶を占ったものです。
◎問C 収穫の3%程度の稲の徴収=租に関連して
1. 徴収されると、おもに諸国において貯蔵された。
2. 労働力の提供の代わりに徴収されるものであった。
3. 女性の田地からは徴収されなかった。
4. 61歳以上の者の田地からは徴収されなかった。
5. 賎民は口分田が支給されず、徴収されなかった。
律令制のもと、戸籍にもとづいて6歳以上の男女に口分田を班給して租税を課す体制が確立します。
民衆には祖・調・庸・雑徭などの負担が課せられた。祖は口分田などの収穫から3%程度の稲をおさめるもので、おもに諸国において貯蔵された。(43頁)
正解は、1の文でした。祖は「田1段につき稲2束2把」が課されました。これはすべての田地にかかる租税であり、正庁(21歳から60歳の男性)だけでなく、次丁(老丁)・中男(少丁)・女性にも同様に課されました。祖の大部分は地方の郡家に保存され、一部だけが都へおくられました。
調は郷土の産物を都におさめるもの、庸は都での労役(歳役)かえて一定量の布をおさめるものでした。これらは主に正丁に課されましたが、都までの運搬する運脚の義務があり、大きな負担でした。
雑徭は国司の命令で行う地方での労役で、年間60日を限度としていました。
なお、5の「賎民」は5つに分けられており、陵戸・官戸・公奴婢は良民と同じ口分田、家人・私奴婢には良民男女の3分の1の口分田が支給されました。いずれも祖が課されています。
今回はここまでです。
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