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教科書だけで解く早大日本史 2021商学部 11

2021商学部編の第11回です。引き続き4⃣をみていきます。

※大学公式ページで問題を確認してください。執筆時未掲載

※東進データベースは要登録です。執筆時未掲載

◎問D (史料Ⅰ)と同じ年に起こったこと 正しいもの2つ

1. 演説内容が問題となり文部大臣が辞職に追い込まれた。
2. 衆議院議員選挙法が改正された。
3. 軍部大臣現役武官制が制度化された。
4. 旧進歩党員らにより憲政本党が設立された。
5. 山県有朋が内閣を組織し、憲政党員が入閣した。

(史料Ⅰ)では( イ )=伊藤博文が「大隈板垣両伯」に「内閣開放の英断」をおこなったことを論じています。このはじめての政党内閣である隈板内閣が成立したのは1898(明治31)年です。

 しかし、大隈内閣は組閣直後から旧自由・進歩両党の対立に悩まされ、尾崎行雄がいわゆる共和演説事件②で文部大臣を辞任すると、後任をめぐって対立が頂点に達した。憲政党は憲政党(旧自由党系)と憲政本党(旧進歩党系)に分裂し、内閣をわずか4ヵ月で退陣した。(292頁)

 その後を受けた第2次山県有朋内閣は憲政党(旧自由党系)の支持を得て地租増徴案(2.5→3.3%)を成立させます。山県は政党の力をおさえるために、文官任用令の改正、軍部大臣現役武官制の導入、治安警察法の公布、選挙法改正(納税資格15円→10円)などを実施します。

正解は1と4です。2と3は第2次山県内閣での出来事です。

なお、5は「憲政党員が入閣した」が誤りです。星亨が党首だった憲政党(旧自由党系)は山県に協力して地租増徴案に賛成しますが、入閣は断られたため、政党結成を考えていた伊藤博文に接近して立憲政友会につながっていきます。

△問E 第1次伊藤博文内閣の時期に起こった出来事 誤っているもの2つ

1. 枢密院で憲法草案が審議された。
2. いわゆる鹿鳴館外交が行われた。
3. 自由党が解党した。
4. 大隈重信が外務大臣に就任した。
5. 大同団結運動が行われた。

1885(明治18)年に内閣制度が創設されると伊藤博文が初代内閣総理大臣となります。閣僚は大半が薩長出身者で占められました。2代総理大臣の黒田清隆が総理大臣となるのは1888(明治21)年ですので、この約3年の間に起きた出来事で「ない」ことを選ぶ問題です。

まず、関連する出来事を考えましょう。

2の「鹿鳴館外交」は井上馨外務卿(のち外相)の欧化政策です。鹿鳴館(1883年建設)を活用して条約改正交渉に前進をつくりますが、政府内外から極端な欧化主義が批判されます(287頁)。

1887(明治20)年の井上外相の条約改正交渉失敗を受けて三大事件建白運動が起こります(地租軽減、言論・集会の自由、外交失策の挽回)。旧自由党系と立憲改進党の区別なく国会開設に向けて小異を捨てて大同につくという「大同団結運動」が星亨・後藤象二郎らを中心に展開されます(282頁)。

井上外相の後を受けて外相に就任したのは大隈重信でした。しかし、大隈の大審院に外国人判事を任用する改正案も批判を受け、玄洋社のテロで足を負傷して退くことになります(288頁)。

この一連の流れが1887年の井上外相辞任前後でつながることになり、第1次伊藤内閣の期間中の出来事となります。

大隈外相の就任時期については教科書に年代が書かれていませんが、井上外相の交渉失敗=辞任が1887年とあることから同年であったと考えられます。大隈が負傷して辞任するのは1889年の黒田内閣時です。

1の「枢密院」は1888年に設置されました(284頁)。枢密院の初代議長となったのは伊藤博文です。この時点で内閣総理大臣は黒田清隆になっていますが、教科書には伊藤博文が枢密院議長だったことが書かれていません(『用語集』にはあり)。内閣制度と同様、のちに憲法で規定されます。

3の自由党解党は「加波山事件の直後」(281頁)です。加波山事件が1884年9月ですから、内閣制度ができる前に解党していたことになります。

誤りの2つは、1と3でしたが、1は教科書で確定できませんでした。しかし、2、4、5が正しい文であることは確認できましたので正解にたどり着くことはできました。

△問F 「憲法」の内容について 誤っているもの2つ

1. 天皇大権の一つとして戒厳令が規定され、のち日比谷焼き討ち事件、関東大震災、二・二六事件などで発令された。
2. 天皇大権として陸海軍の編制および常備兵額を定める統帥権(統帥大権)が規定された。
3. 天皇大権として緊急勅令が規定されたが、次の議会の承認を必要とした。
4. 天皇大権として帷幄上奏権が定められ、のちにこれがもととなり第二次西園寺内閣が倒れた。
5. 言論・出版・集会・結社の自由などの国民(臣民)の権利は法律の範囲内においてのみ認められた。

教科書で「天皇大権」としてあげられているのは、

神聖不可侵とされた天皇は統治権のすべてを握る総攬者であり、文武官の任免、陸海軍の統帥(作戦・用兵など)、宣戦・講和や条約の締結など、議会の関与できない大きな権限を持っていた(天皇大権)。このうち陸海軍の統帥権は、内閣からも独立して天皇に直属していた(統帥権の独立)。(284頁)

まず、1の「戒厳令」ですが、ここではとりあげておらず、前ページの「大日本帝国憲法」でも書かれていません。教科書では二・二六事件のところで「首都に戒厳令が出された」(350頁)とあるだけです。戒厳令は第14条で規定されており、1905年の日比谷焼き討ち事件、1923年の関東大震災、1936年の二・二六事件などで発令されています。

次に2の「統帥権」ですが、こちらは教科書本文で(作戦・用兵など)と中身が書かれています。編制・常備兵額については、統帥権を定めた第11条「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」とは別に、第12条で「天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム」となっています。第12条の規定は「編制大権」と呼ばれるものです。

3の「緊急勅令」は第8条や第70条の条文の一部が掲載されていますが、「次の議会の承認を必要とした」の部分がありません。これは正しい文です。

4の「帷幄上奏権」は天皇大権ではありません。これは、陸軍参謀総長・海軍軍令部長・陸軍大臣・海軍大臣に認められた直接天皇に上奏する権能です。陸軍大臣が単独で天皇に辞表を提出し、陸軍が後任の陸軍大臣を出さなければ、軍部大臣現役武官制によって現役の陸軍大将を陸軍大臣とできなくなり、主要閣僚を欠く内閣は存続できないため総辞職に追い込まれます。第2次西園寺内閣時の上原勇作陸相の単独辞任を皮切りに、昭和の軍部大臣現役武官制の復活(広田内閣)後にもたびたびつかわれることになりました。

なお、教科書には「帷幄上奏権」という語がのっていません。

最後に臣民の権利ですが、

 一方、憲法上「臣民」と呼ばれた日本国民は、法律の範囲内で所有権の不可侵、信教の自由、言論・出版・集会・結社の自由を認められ、帝国議会での予算案・法律案の審議を通じて国政に参与する道も開かれた。(284-285頁)

このように法律による制限はあったものの権利を認められていました。

2の「統帥権」、4の「帷幄上奏権」の中身が誤っていました。

1と4に『用語集』が必要でした。

今回はここまでにしとうございます。

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