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教科書だけで解く早大日本史 2021文化構想学部 2

2021文化構想学部編の第2回です。〔Ⅰ〕の中盤4問を見ていきます。

※大学公式ページで問題を確認してください。

https://www.waseda.jp/inst/admission/other/2021/02/27/9942/

※東進データベースは要登録です。

◎4 胆沢城に関して 正文1つ

ア 坂上田村麻呂が、蝦夷の阿弖流為を降伏させたのと同じ年に築いた。
イ 嵯峨天皇の時に文屋綿麻呂が築き、以後蝦夷との戦いはなくなった。
ウ 阿倍比羅夫が出羽国の拠点として築き、日本海側からの進出の拠点とした。
エ 築城後に陸奥国府が移され、朝廷の東北支配の拠点となった。
オ 伊治呰麻呂の乱の時には、一時攻め落とされて放火された。

正しい文を一つ選ぶ問題です。

「その後、征夷大将軍となった坂上田村麻呂は、802(延暦21)年胆沢の地に胆沢城を築き、阿弖流為を帰順させて鎮守府を多賀城からここに移した。翌年にはさらに北上川上流に志波城を築城し、東北経営の前進拠点とした。日本海側でも、米代川流域まで律令国家の支配権が及ぶことになった。」(61頁)太字は引用者による

正解はアです。阿弖流為の帰順と胆沢城築城は同じ年です。

イの嵯峨天皇の時代に文屋綿麻呂が築いたのは徳丹城(813年)です。

ウの阿倍比羅夫は斉明天皇の時代(7世紀中頃)に東北に派遣されています(49頁)。

エは引用の通りで、移されたのは陸奥国府でなく鎮守府です。

オの伊治呰麻呂の乱は780(宝亀11)年で胆沢城築城前です(61頁)。

61頁の「東北地方の城柵」は城柵の名称、位置、年代までおさえておきたい重要資料です。

◎5 『一遍上人絵伝』と同時代の作品でないものは

ア 『男衾三郎絵巻』
イ 『法然上人絵伝』
ウ 『春日権現験記』
エ 『蒙古襲来絵詞』
オ 『信貴山縁起絵巻』

教科書では『一遍上人絵伝』は2カ所掲載されています。110頁の「備前国福岡市」の様子、そして114頁の「踊念仏」です。一遍は鎌倉仏教の開祖の一人で13世紀の人物です。

『信貴山縁起絵巻』12世紀の絵巻。命蓮という僧が鉢を飛ばして長者(地方豪族)の倉を信貴山まで運んだという話などを描く。動的な線描で庶民の生活や風俗を描く。

『信貴山縁起絵巻』は院政期の絵巻ですから一遍が生まれる前の作品です。

105頁に「笠懸」の様子が掲載されている『男衾三郎絵巻』、108頁に「てつはう」が掲載されている『蒙古襲来絵詞』が写真資料で教科書に掲載されています。

14世紀初頭の作である『春日権験記』は118頁の本文、同じく14世紀初頭の『法然上人絵伝』は119頁の一覧に書かれています。

『信貴山縁起絵巻』以外はすべて鎌倉文化の作品でした。

◎6 戦国大名朝倉氏の居館を中心に成立した城下町

漢字指定の記述問題です。

分国法
 朝倉①が館之他外、国内□城郭を為ㇾ構ましく候。惣別②分限あらん者③、一乗谷④へ引越、郷村には代官計可ㇾ被ㇾ置事。(朝倉孝景条々)
④朝倉氏の居館があった地。現在の福井県福井市
(150頁)太字は引用者による

正解は、「一乗谷」です。戦国好きの人なら即答の問題でしょうが、そうでない人にはなかなかの難問です。他に代表的な城下町として、

この頃栄えた城下町としては、北条市の小田原、今川氏の府中(静岡市)、上杉氏の春日山(上越市)、大内氏の山口、大友氏の豊後府内(大分市)、島津氏の鹿児島(151頁 脚注①)

などが挙げられています。

△7 桃山時代の城郭建築について

ア 秀吉は朝鮮侵略の出兵拠点として、肥前に大坂城に次ぐ規模の巨大な名護屋城を築いた。
イ 都久夫須麻神社の本殿は、秀吉が晩年に築いた伏見城の遺構と考えられている。
ウ 秀吉の死後に家康が居館とした伏見城の跡には桃が植えられ、桃山と呼ばれた。
エ 秀吉の上洛時の居館として築かれた二条城の二の丸御殿は、桃山文化の代表的な遺構である。
オ 城郭の内部を飾る障壁画や屏風絵では、狩野永徳やその門人の狩野山楽が活躍した。

誤りの文を一つ選択する問題です。

1587(天正15)年、秀吉は対馬の宗氏を通して、朝鮮に対し入貢と明へ出兵するための先導を求めた。朝鮮がこれを拒否すると、秀吉は肥前の名護屋に本陣を築き、1592(文禄元)年、15万余りの大軍を朝鮮に派兵した(文禄の役)。(165頁)太字は引用者による

は正文です。秀吉は朝鮮出兵(明出兵)の本陣を肥前の名護屋に構えました。金の鯱で有名な尾張の名古屋城と区別をつけておきましょう。

都久夫須麻神社本殿伏見城遺構) 入母屋造・檜皮葺の建物で、伏見城内の殿社を移築したものである。(166-167頁)太字は引用者による
③秀吉は、晩年に伏見城を築いてそこに住んだが、のちその城跡に桃が植えられたので、この地を桃山と呼ぶようになった。(165頁 脚注①)

は正文です。は秀吉のあとに家康が伏見城を居館としたかどうかはわからないですが、都久夫須麻神社本殿が伏見城遺構であること、伏見城跡に桃が植えられたことは確認できます。

の二条城二の丸御殿は166頁の桃山文化の主な建築の一覧に掲載されているので桃山文化の代表的建築物であることはわかりますが、それ以外の部分については判定できません。

障壁画の中心となった狩野派では、狩野永徳が室町時代にさかんになった水墨画と日本古来の大和絵を融合させて、豊かな色彩と力強い線描、雄大な構図をもつ新しい装飾画を大成し、その門人狩野山楽とともに多くの水墨画にもすぐれた作品を残した。(167頁)

は正しい文としてよいでしょう。

誤文はです。この文の誤りは冒頭部分です。「秀吉の」ではなく「家康の」が正しい。二条城は家康の上洛時の居館として1601~3年に造営されました(用語集 150頁L)。以後、家光の上洛時、大政奉還の舞台としても知られます。

ウとエの選択がかなり細かく、ややマニアックな問題でした。

今回はここまでです。

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