見出し画像

教科書だけで解く早大日本史1-5 社会科学部2020

1998年の新14号館の快適さは素晴らしいものでしたが、建設期間中は1号館、7号館、15号館をウロウロと歩き回る自らの学部棟をを持たない流浪の学部生となってしまいました。特に1994年度の新入生は旧14号館を3か月ほど使っただけで、残りの3年半を過ごし、A棟の完成を待たずして卒業しなければならない運命を背負いました。それを覆す方法は留年しかなかったのです。

 それでは、大問Ⅲに入りましょう。大問Ⅲは疫病・飢饉・天災にかかわるテーマ史が出題されました。

問題は、河合塾速報からどうぞ。

〇問1 聖武天皇時代の鎮護国家思想に関連して、不適切を2つ

イ 聖武天皇は、知識寺の廬舎那仏を拝んだことが契機となり、大仏造立を思い立った。
ロ 廬舎那仏は法華経の本尊である。
ハ 国分尼寺には20人の尼僧をおくものとされた。
ニ 全国的な国分寺・国分尼寺建立は難航し、地方豪族の協力が求められた。
ホ 近江の紫香楽宮で大仏造立の詔が出された。

 疫病の流行、地方の反乱などがあり、聖武天皇は恭仁京・難波宮・紫香楽宮を転々とします。かつての社学生のようです。そんな中で聖武天皇が求めた鎮護国家とは、「仏教によって国家の安定をはかる」という思想でした。

「こうした政治情勢や飢饉・疫病んどの社会的不安のもと、仏教を厚く信仰した聖武天皇は、仏教のもつ鎮護国家の思想によって国家の安定をはかろうとし、741(天平13)年に国分寺建立の詔を出して、諸国に国分寺・国分尼寺をつくらせることにした②。ついで743(天平15)年には近江の紫香楽宮で大仏造立の詔を出した。」(本文)
②「大事業であるため、諸国ではなかなか完成せず、のちに地方豪族の協力を求めている。」(脚注) (太字は筆者による)

 本文と脚注により、ニとホが適切であることがわかりました。743年は墾田永年私財法を発した年です。大仏造立に行基の力を借りたことは小学生でも学ぶことですが、国分寺・国分尼寺の建設も多くの人の力を必要とする大事業でした。

 「不適切が2つ」ということは、イ・ロ・ハのうち適切なものは1つしか残っていないということです。

国分寺建立の詔
(天平十三年)三月・・・乙巳、詔して曰く。「・・・宜しく天下諸国をして各敬して七重塔一区を造り、幷せて金光明最勝王経・妙法蓮華経各一部を写さしむべし。・・・僧寺には必ず廿僧有らしめ、その寺の名を金光明四天王護国之寺と為し、尼寺には一十尼ありて、其の寺の名を法華滅罪之寺と為し、両寺相共に宜しく教戒を受くべし。・・・」と。(『続日本紀』、原漢文) (太字は筆者による)
大仏造立の詔
(天平十五年)冬十月・・・「・・・菩薩の大願を発して廬舎那仏③の金銅像一軀造り奉る。・・・夫れ天下の富を有つ者は朕なり。天下の勢を有つ者も朕なり。・・・」と。(『続日本紀』、原漢文) (太字は筆者による)
③華厳経の本尊。仏国土をあまねく照らす仏。

『続日本紀』は『日本書紀』に引き続いて編纂された正式な国史で六国史の二番目にあたります。教科書(山川)では上の2つのほか、三世一身法、墾田永年私財法の2つが資料として掲載されています。これらは中学の歴史でも出てくる頻出資料ですが、さすがに早稲田で問われるのは細かいところです。
 ハの「20人の尼僧」は「10人の尼僧」の誤りです。20人(廿)とされたのは国分寺の方でした。
 また、ロの「法華経」は「華厳経」の誤りです。

 そういうわけで、教科書と脚注、掲載資料から不適切な2つを選ぶことができましたので〇評価・・・、というわけにはいきませんね。

 イの聖武天皇が「知識寺の廬舎那仏を拝んだことが契機」という文が適切な文であることは問題上は確定しました。

同書(『続日本紀』)によれば、聖武天皇が大仏造立を思いたったのは、740(天平12)年に河内国の知識寺(大阪府柏原市)の廬舎那仏を拝んだ時の感動に始まり、最終的に決断したのは、宇佐八幡宮(大分県宇佐市)の神が完成への助力を表明したからであった。知識寺の遺跡は塔心礎石をわずかに残すのみであるが、寺号の「知識」は結束した仏教信徒、また仏への献納物のことである。(太字は引用者)

 『続日本紀』には740(天平12)年に河内国の知識寺(民間の力でつくられた寺)の廬舎那仏を拝んで、自分もつくろうと思ったという話がありますが、教科書の冒頭「歴史へのアプローチ」でふれられています。

 掲載資料で正解に辿りつきましたので〇評価です。

※なお、アニメ「まんが日本史」第7話で聖武天皇と光明皇后が知識寺で廬舎那仏を拝むシーンが登場します。


◎問2 737年の疫病で命を失った藤原氏の人物を2人

イ 藤原広嗣 ロ 藤原仲麻呂 ハ 藤原宇合 
ニ 藤原麻呂 ホ 藤原不比等

 「藤原不比等の子の武智麻呂・房前・宇合・麻呂の4兄弟」は政敵であった長屋王を自殺に追い込み、妹の光明子を皇后に立てることに成功、権力を握りました。しかし、737(天平9)年に流行した天然痘で「あいついで病死し、藤原氏の勢力は一時後退」しました。

※この4兄弟の家系をそれぞれ、武智麻呂=南家、房前=北家、宇合=式家、麻呂=京家とよび、藤原四家とよばれます。
 南家は長男の豊成が右大臣、次男の仲麻呂は大師(太政大臣)になりますが、恵美押勝の乱で仲麻呂系は没落、豊成の系譜も続きませんでした。
 宇合の長男・広嗣が九州で反乱をおこすなどした式家は称徳天皇の後継指名で光仁天皇擁立に成功した良継や百川らが出世しました。桓武天皇から信頼された藤原緒継なども出ましたが、平城太政天皇の変(薬子の変)で仲成が射殺され、薬子が自殺するなどして、以後衰退しました。
 麻呂の京家は、麻呂自身が若くして没したこともあり後継者に恵まれず、次男の浜成が参議になりますが、娘婿である氷上川嗣の謀反に連座して没落し、以後の公卿はは大納言を一人だしたのみでした(京家は芸術分野で優れた人を輩出し、三十六歌仙の一人である藤原興風らがいます)。
 房前の北家は後に隆盛を極めます。冬嗣以降の主要な系統はしっかり頭に入れておきましょう。北家に関しては、いずれどこかでふれることになるでしょう。

 正解は、ハとニ。もちろん◎問題です。

◎問3 以仁王を奉じて平氏打倒のために挙兵したのは誰か、1人。

イ 源義親 ロ 源為義 ハ 源範頼
ニ 源頼義 ホ 源頼政

 正解は、ホの源頼政(源三位頼政)です。

「平清盛が後白河法皇を幽閉し、1180(治承4)年に孫の安徳天皇を位につけると、地方の武士団や中央の貴族・大寺院の中には、平氏の専制政治に対する不満がうずまきはじめた。
 この情勢を見た後白河法皇の皇子以仁王と、畿内に基盤を持つ源氏の源頼政は、平氏打倒の兵をあげ、挙兵を呼びかける以仁王の命令(令旨)が諸国の武士に伝えられた。」(太字は筆者による)

 文句なしの◎問題ですが、それ以外の4人も確認しておきましょう。

 清和源氏は清和天皇の孫・経基王(藤原純友の乱平定)に始まり、子の満仲は藤原氏に仕えました。さらに、その子である頼光・頼信の兄弟のうち、頼光流の末裔が源頼政です。頼信は東国で平忠常の乱を平定して、子の頼義(ニ)、その子の義家が前九年合戦、後三年合戦で東国武士団との主従関係をつくり、義家は武家の棟梁として初の昇殿を許されました。東国の武士団が義家に土地を寄進して保護を求めたため、朝廷があわてて寄進を禁止したほどでした。
 しかし、義家の子・義親(イ)が反乱を起こすなどして源氏の勢力が弱まり、かわって平氏が台頭していきます。義親の子・為義(ロ)は息子らとともに崇徳上皇側について保元の乱に参戦しますが後白河天皇側に敗れます。
 平治の乱で為義の長男・義朝が敗れると平清盛が政治の実権を握りますが、頼政らの呼びかけに答えた義朝の三男・頼朝が関東で挙兵し、弟の範頼(ハ)、義経らを大将に壇ノ浦で平氏を滅ぼします。その後、平氏打倒に貢献した範頼、義経らは頼朝に疎まれて排除されてしまいます。


 選択肢の人物は義親だけが本文に記載がなく、系図だけでした。源氏の系図は義親の兄弟である義国の子から新田氏と足利氏に分かれていきます。

◎問4 1231年の飢饉で元号が寛喜から貞永に改められた時の執権は誰か

イ 北条義時 ロ 北条泰時 ハ 北条経時
ニ 北条時頼 ホ 北条時宗

 正解はもちろんロの北条泰時です。1231年に貞永に改元され、1232年に御成敗式目(貞永式目)を制定したのが3代執権の北条泰時です。年号、内容ともに中学教科書レベルですが、前年にすでに間違いなく執権であったというためには、それ以前の業績も知っておく必要があります。

「承久の乱後の幕府は、3代執権北条泰時の指導のもとに発展の時期を迎えた。政子の死後、泰時は、執権を補佐する連署をおいて北条氏一族中の有力者をこれにあて、ついで有力な御家人や政務にすぐれた11名を評定衆に選んで、執権・連署とともに幕府の政務の処理や裁判に当たらせ、合議制に基づいて政治をおこなった。
 1232(貞永元)年には、御成敗式目(貞永式目)51ヶ条を制定して、広く御家人たちに示した。」

 北条時房(泰時の叔父)が初の連署になり、評定衆が設置されたのがともに1225年です。藤原頼経が4代将軍になったのが1226年。泰時は亡くなる1242年まで執権として幕政を担当しました。

※泰時の制定した御成敗式目については、前の引用のあとに資料と説明があります。六波羅探題の弟・重時に宛てた書状は頻出資料ですから、武家法と公家法・本所法が併存していたことなどを鎌倉幕府の支配体制の特徴と合わせて理解するとよいでしょう。

 もちろん、文句なしの◎です。

 イの義時は泰時の父で2代執権。承久の乱のときの執権で後鳥羽上皇から追討の院宣を出されます。彼の法名・徳宗から義時の直系は得宗家とよばれるようになります。
 ハの経時は泰時の孫で4代執権。4代将軍である九条頼経(藤原頼経)を更迭するなど権勢をふるったのですが、病気で弟の時頼(ニ)に執権を譲ります。経時に関しては本文の記載はなく系図だけです。
 時頼は三浦一族を滅ぼした宝治合戦(1247)で北条氏の地位を不動のものとし、評定衆のもとに引付を設置し、引付衆を任命して所領裁判の迅速・公正化をはかりました。また、摂家将軍を廃し、後嵯峨上皇の皇子宗尊親王を皇族将軍としてむかえました。蘭渓道隆に帰依し建長寺を建てるなどしています。
 ホの時宗は時頼の息子で、蒙古襲来(元寇)時の執権です。時宗は8代執権ですが、時頼の没時にまだ若く、6代執権は長時(赤橋)、7代執権は政村(義時の子・泰時の弟、時宗の執権就任後は連署)がつとめています。

◎問5 江戸時代の飢饉についての文を年代順に古いものからならべる

①冷害や浅間山大噴火を経て、東北地方中心に多数の餓死者を出した。
②収穫量が例年の半分以下の凶作となり、全国的な米不足となった。
③西日本一帯でいなごやうんかが大量発生したことから大凶作となり、全国的な飢饉となった。
イ ①→③→② ロ ②→①→③ ハ ②→③→①
ニ ③→①→② ホ ③→②→①
1732(享保17)年には、天候不順の西日本一帯でいなごやうんかが大量に発生し、稲を食い尽くして大凶作となり、全国におよぶ飢饉となった(享保の飢饉)。このため民衆の暮らしは大きな打撃を受け、江戸では翌1733(享保18)年に、有力な米問屋が米価急騰の原因をつくったとして打ちこわしにあった。」
1782(天明2)年冷害から始まった飢饉は、翌年の浅間山の大噴火を経て数年におよぶ大飢饉となり、東北地方を中心に多数の餓死者を出した(天明の飢饉)。このため全国で数多くの百姓一揆がおこり、江戸や大坂をはじめ各地の都市では激しい打ちこわしが発生した。」
「天明の飢饉後、寛政・文化・文政期は比較的天候にめぐまれ、農業生産はほぼ順調であった。しかし、天保年間の1832~33(天保3~4)年には収穫が例年より半分以下の凶作となり、全国的に米不足をまねいて、厳しい飢饉に見舞われた(天保の飢饉)。農村や都市には困窮した人びとが満ちあふれ、百姓一揆・打ちこわしが続発したが、幕府・諸藩はなんら適切な対策立てることができなかった。」(太字は筆者による)

 ニの③→①→②が正解です。

 大問Ⅲの問1~問5までを見てきました。毎回少しずつ字数が増加している気がしますので、もう少しシンプルに教科書依拠だけを見ていった方がよいでしょうか?

 次回、問6からになります。

画像1


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?