見出し画像

【弟はずっと幼いままだった】戦争被爆者の話を聞く

昨日たまたま横浜駅のSOGO近くを通りかかった時、近くのイベントスペースに人だかりが出来ていた。

なんだろう?と気になって覗いてみるとそこには原爆被災者のイラストがずらり。【2022 原爆と人間展】の企画展示だった。

幼い子は小学生から、若い人、それ以外の人、20-30人はいたと思う。

私も手の消毒と検温をして中の展示もじっくり見た。はだしのゲンを幼少期から読んでいるので戦争がどういったものかを知ってはいたものの、【被災者】が描く戦争体験のイラストは、見た印象そのまま、リアルを伝えており、時折胸に来るものがあった。

そして本日。13時から広島で被災した方の講演会があるとのことで行ってみた。今まで映像などでは見たり聞いたりしていたが、生の声を聞くのは初めてだった。今後はどんどん原爆被災者本人の話を聞く機会が無くなり、いつか絶対本人から話を聞くことができなくなる。だから今日がチャンスだと思った。

最初の15分程は、2019年に当時88歳(今は91歳)の松本さんの被曝体験を映像で見た(コロナ対策で事前収録したものとのこと)後、質疑応答と松本さん自身の話を聞いた。

印象的だった言葉は、「私は爆心地から4キロほど離れたところで被災したため、怪我がなかった。私は無傷の被災者だったから、私は恥ずかしい被災者だ。だから皆んなの前で戦争体験の話なんて出来なかった。出来るはずがなかった。」ということ。

昭和45年(1970年)4月18日、神奈川原爆被災者の会が、大船観音寺の境内に「原爆被災者慰霊碑」を建立した。毎年戦争被災者の遺族が前で話す機会があるが、たまたま予定していた人が来ることが出来ず、代わりを頼まれたため、初めて皆んなの前で自身の被曝体験をお話したそうだ。

普段なら拍手なんて起こるはずがないのに、松本さんが話した言葉に、皆んなが拍手した。その後から松本さん自身が自分の被曝体験を伝えるため、原爆被災者の会に入ったそうだ。

やはり、映像での言葉と、生の言葉は違う。質疑応答の後、松本さんは話したいことがあると椅子から立ち上がり、話し始めた。

松本さんの弟は、原爆で亡くなったとのこと。「今でも、私の中の弟は当時のままなんです、若いままなんです…」と、時折目を潤ませながら話をしていた。多分、この言葉は私が忘れることが出来ない言葉だろう。

「弟は原爆が落ちる前日、親戚の家に向かって行った。今でも弟の後ろ姿を忘れられない。」

「弟は前日、親戚から大歓迎を受け、とても楽しい夕食だったそうだ。」

「弟は、死ぬまで「兄ちゃんがきてくれるから大丈夫」と言って亡くなった。」

戦争とは、全てを奪うものだと改めて思う。

「アメリカは、核廃棄条約を脱退した。時代と逆光するものだ。」

「でもアメリカを憎むのではなく、戦争を憎むのだ。」
という真っ直ぐな、力強い言葉に、胸を強く打たれた。

最後に松本さんが90歳になった時に作った詩吟を披露してくれた。

私もびっくりしたが、マイクを通して突然、とても大きな声で歌を披露し始めた。

「卒寿とや ピカで犠牲の 声聞こゆ
長生き続け 恨み晴らせよ」

現在は癌で闘病中の松本さんが、「きっと病気持ちでもこんなに長生きできるのは、身内がもっと長生きして恨みを晴らしてくれって言ってるんだと思います。そうでもなきゃ、長生きしてる理屈が通らない。」と仰っていた。

戦争はしていけない。
でも、今私たちは「戦争」というものが夢物語ではなく、目の前に迫っている、感じられるようになってしまったのではないか。

ウクライナのようにならないため、核武装をする必要があるーそういう声も聞くが、本当にそうなのか?
私たちは、真に戦争を、原爆を、核を体験した人々にもっと話を聞かなければならないのではないか。

そして、映像でもなく、「伝えること」ー声というものの大きさに、影響力に、自分自身の今後の方向性も真剣に考えてしまう。

最近は、何かを伝えていく、そんなことにとても興味を持っている。

こうした戦争体験も、語り部という役割もあるし、未来の子どもたちへ、今生きている人たちへ、私は何を伝えられるのだろうか、何を伝えなくてはならないのか。

そんなことも、この戦争体験の話を聞いて思った私の気持ちである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?