人は皆、マイノリティーになる瞬間がある

ゆりかです。前回の記事でコメントをくださった方、ありがとうございます。また、記事を読んで、考えてくださった方々も多くいらっしゃったと思います。ありがとうございます。前回の記事での問いについて考える方がどんどん増えていくと嬉しいです。

前回の記事はこちら。↓

https://note.com/yurika313/n/n830a8c97bd0a


さて、今回も特別支援学校で勤務をしていたときに感じたことを書きたいと思います。

前の投稿でも書きましたが、2年目のとき副担任をしていたクラスは、私以外聴こえない人たちでした。私はその中で手話を使いながら、時には筆談しながらコミュニケーションをとっていました。その中では、それが「当たり前」でした。大学の友人たちと会う機会があったので、仕事での話をしたところ、
「手話で会話してるの!?すごいね!大変でしょ?」と言われました。

私はこの言葉に「ん?」と違和感を感じました。

所謂健常者と呼ばれる人たちが、障害がある方と関わっていることに対しては、「すごいね!」「大変だね!」と称賛や苦労の言葉をかけられるのに対し、

障害がある人たちが、健常者の人の輪に入るには、とてつもない努力をしているのにも関わらずあたかもそれが「当然」のように扱われる。この事実に違和感をおぼえたのです。

私は、もっていたクラスがたまたま聴覚障害がある人だらけで、そこでコミュニケーションをとったりするのに手話を使っていたから、「手話」を覚えただけ。何も称賛されることではないのです。

だって、そこは聴覚障害者の社会であり、その中では私が「マイノリティーであるから」。私がもっている「当たり前」は通用しないのです。


人は皆、マイノリティーになる瞬間があります。にも関わらず、今は所謂「健常者」の社会が「当たり前」であり、「普通」であり、そことは外れた人たちは「普通ではない」とされ、普通にしようとされる。いろんな社会や考え方があるのに、どうしてお互いを認め合えないのか、と私は思います。

終わり方が分からなくなってきたので、ここまでとします。長々と失礼しました。最後までお読みいただきありがとうございました。