居場所のない私たちの安らげる場所とは:角田光代「東京ゲスト・ハウス」から考える

地方在住の友人が、上京するときには「ゲスト・ハウス」を利用しているという。彼によれば、若い旅行者用の宿泊施設としては一般的なホテルよりもリーズナブル。その上、世界中から集まったさまざまな宿泊客たちと交流できるため、新たな出会いや文化的な刺激を求めて利用しているのだそうだ。

「ゲストハウス」というと、かつては公私がごちゃごちゃの混沌とした空間というイメージだったが、最近は内装などにこだわったオシャレな施設も多く、安全安心に泊まれる場所であることがアピールされ、後ろ暗い雰囲気は、ほとんど感じられなくなったらしい。

調べてみると、地方で深刻化している「空き家」や「空き店舗」の対策として地方自治体レベルで推奨されたり、2016年に宿泊施設の容積率を緩和する制度が施行されたりと、より宿泊施設を提供しやすい環境となっている。東京オリンピックに合わせて、今後も空き家物件のゲスト・ハウス化はますます進んでいくようだ。

ただ、自分にとって「ゲスト・ハウス」のイメージは、どうしても角田光代の「東京ゲスト・ハウス」(河出書房)から離れられない。刊行されたのは1999年だから、今から18年前の物語である。

主人公のアキオは、アジアの国々を半年間放浪したばかり。旅に出る以前の自分を彼はこのように振り返る。

"ひょっとしたら三十になってさえ、そこそこうまいカップラーメンをうれしそうに食い、ほかの男のことで泣いている女と意味もなく寝ることを考えてにやついているのかもしれなかった。なあんかそういうのって退屈。ぼくはふいにそう思った”

しかし帰国すれば、同居していた彼女の家には別の男が住んでいた。帰る場所を無くし、たどり着いたのは旅先で出会った女性、暮林さんの運営するゲスト・ハウスだった。

”おばあちゃんね、旅館したくて、この建物違法建築らしいんだけど、こんなの建てちゃったんだよね。でも結局できなかったんだ、(中略)今は平気、だれも何も言ってこないからね”

このゲスト・ハウスは、現在のような流動的な宿泊施設というより、流れ者の吹き溜まりのようなイメージが濃い。素行の悪いカップルや挙動不審な男性などが集まり、日々落ち着かない生活が繰り広げられる。

人数が増え、にぎやかな空間となっていくにつれて、アキオの心は家から離れていく。かといって自分の居場所は一体どこにあるのか、いつまでもはっきりとしない。

"1人で起きて1人でアルバイトにいき、定食を食べて1人で帰ってきて、ビールを飲んで眠る。そんな独居老人のような暮らしを想像し、不動産屋のドアを開けることがどうしてもできないでいた(中略)ぼくはやはり旅の気配の残るあの家で、1人の男をめぐる女たちや毎晩犬に餌をやる無口な男や、アダルトビデオの宣伝文を書く女と一緒にいたいのかもしれなかった”

ゲスト・ハウスはいつまでもいられる場所ではない。いつかは旅立つ人々のための中継地点であり、居場所のない人間がほんの少しの間安らげる空間である。いつかは落ち着ける場所を見つけなくてはならない。しかし、いつまでもここにいたいとも思ってしまう。

そんなアキオの葛藤は、何も世界中を旅してきた人間だけのものではないだろう。人生の岐路にはいつも、こんなウダウダした気持ちが溜まっているのだから。

もちろん「シェアハウス」といった考えが浸透し、暮らし方の多様性が認められ始めた現在であれば、そのまま共同生活を維持していくという考えも生まれるかもしれない。事実、そうしたコミュニティもここ10年どんどん増え続けている。

しかし、物語の後半を読めば、そこにもやはり問題があることが見えてくる。ゲストハウスという空間だからこそ起こりうるトラブル(ネタバレ防止のために言うなら、"王様問題”といえばいいだろうか)は、現在もよくある類のものだ。18年間、私たちの居場所をめぐる問題は何も変わっていないのかもしれない。それでは、自分にとって本当に居心地のいい場所は果たしてどこにある(作れる)のだろうか。

物語に登場する若者たちは生きていれば40歳前後になる。彼らが旅の果てに自分の居場所を見つけられたのか、そのことが気になって仕方がない。

「東京ゲスト・ハウス」角田光代
河出書房「文藝」1999年秋号掲載、同10月に単行本として刊行

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