にわか、余白を愛する。
美術館
美術館が好き。
でも、アートのことはあまりわからない。
画法とか、画家とか、歴史とか、何もわからない。
絵の横にある説明文を毎度毎度熱心に熟読するが、帰りの電車ではさっぱり忘れている。現代アートや抽象画はもっと理解できない。
私の美術館の楽しみ方といえば…
遠い国の、昔のアーティスト、世界に認められ、偉人と呼ばれるような人たちが、何かを見て、何かを想い、何かを伝えたくてその手で作り上げたものが、巡り巡って美術館に来て、その絵に合うとびきりの額縁を付けられて、私の目の前にある。
その過程とか、想いとかを想像しながら、眺める。
何でこの色にしたんだろう。
この人は恋人だったんだろうか。
この日はひどく寒かったんだろうな。
マニアが聞いたら、私の推測や妄想はトンチンカンすぎて嘲笑われるかもしれない。
でも、それが間違っていようと、楽しんでいるのだから、いいんじゃないかなって、勝手に。
音楽
「このアーティストが好き」
と言うには、バンドメンバー全員の名前を言えて、アルバム収録曲も全部知ってて、数回ライブに行ったことがなければいけないと思っていた。
周りに音楽に詳しい人が多いからか、単に自分のプライドか。
最近、母が「髭男が好き。」と言った。そして続け様に、「ボーカルの顔もよくわかんないし、King Gnuとの区別はつかないけど。」と言った。
ボーカルの顔がわからないのはさておき、King Gnuとの区別すらついていないのに、「好き」と公言した母。
ワインを飲みながら、テレビでやっていたCDTVの髭男ライブを楽しそうに観ていた。
母にとっては彼らが誰で、どんな経歴を送ってきたとか、そんなことはどうでもよく、ただたまたま聴いた、彼らが奏でる音楽を気に入っていて、好きなんだ。
「なんかかっこいいなあ」と思いながら、私も一緒にライブを観た。
そして好きな音楽が、増えた。
恋愛
ハタチくらいまで、恋人の事は全て知りたかった。
家族のこと、過去の恋愛、友達の名前、SNSのフォロワーとの関係性、スケジュール…
過去も現在も全て自分のものにしたかった。
そして、どんなものよりも自分を最優先してほしかった。
女の影が見えたり、自分がおざなりにされたりすると、狂ったように怒り、喚いた。
愛情に飢えた幼少期を送ったわけでもないのに、何故かそうだった。
そのせいで自分も相手も苦しめて、結局それって愛でも何でもないって気づいたのは何年も経ってから。
一緒にいない時間、一人で、また、別の誰かと生きている時間に、私の好きな彼がつくられていて、その時間にも確かに愛情が存在するということに、気づいたのは最近のこと。
今ではむしろ、以前の私のような依存体質な人はニガテだ。
二人で生きるというより、一人一人が生きていて、重なり合う部分があるくらいの関係性が一番いい。
少しずつ少しずつ余白が埋まっていったり、時には増えたり、そんな旅のような恋をしていたい。
余白を愛するということ
何もかも知っていなくても、愛することができる。
ほんの一部しか知らなくても、その一部が、心躍るものであれば。他に類を見ないほど、特別なものであれば。
知らない部分は、余白だ。
無関心とはまた違う、自由な余白。
余白が広かろうと、狭かろうと、悪いことじゃないし、恥じることでもない。
自分で勝手に書き足してもいい。
いろんな色を勝手に想像してみてもいい。
ちょっとずつ埋まっていくのを楽しむのもいい。
ずっと埋まらなくたっていい。
私はこれからも、余白だらけのいろんなものを楽しみ、愛していく。
余白を楽しめるのは、にわかの特権である。
好きなものがたくさんある人生は、楽しい。
YURI.
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