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ロシア人がリヴィウで子供達を射殺:「ロンツキー刑務所」での大量殺人事件

Galinfo 2022年6月24日の記事の翻訳です。

1941年6月、ソ連当局はリヴィウで大量処刑を行った。ロンツキー通りにある第1刑務所は、まさに死のベルトコンベヤーと化した。6月24日から28日までの数日間で、NKVD (内務人民委員部は、スターリン政権下で刑事警察、秘密警察、国境警察、諜報機関を統括していた) は、ここで1,681人を射殺した。

1941年6月22日、独ソ戦が始まった。ソ連当局にとって現実の問題は、政治犯で刑務所が過密状態にあることだった。特にリヴィウを含む前線地帯の刑務所がそうだった。

当時、リヴィウには3つの刑務所があった: 第1刑務所はロンツキー通り、第2刑務所はザマルスチニフスカ通り、第4刑務所はブリギドキー通りにあった。第3号刑務所はゾロチフ城内にあった。なお、1,500人を収容できるロンツキー通りの刑務所には、当時3,638人の囚人が収容されていた。

1941年6月22日の時点で、リヴィウ地方の刑務所には合計で5,424人の囚人がいた。

刑務所の過密問題は人為的な方法では解決されなかった。こうして、1941年6月23日の国家保安人民委員V.メルクーロフの命令2445/M号と、1941年6月23日のウクライナSSRのNKVDの刑務所部長フィリポフ国家保安大尉の命令が下された。

こうしてメルクーロフの命令は、捕虜をITL(ロシア語:исправительно-трудовые-矯正労働収容所)に避難させる必要のある者と射殺する必要のある者に分けた。これは地元のNKVD指導部が行うことになっていた。

フィリッポフの命令には、捕虜の避難計画が含まれていた。5,000人の捕虜がリヴィウ地方から連行されることになっていた。そのために204台の貨車が割り当てられた。しかし、1,822人の囚人しか避難させられなかった。代わりに、3,602人の囚人がリヴィウの刑務所に残った。

リヴィウ地方NKVDのラーマン監獄部長の中間報告によると、6月24日の時点で、リヴィウとゾロチフの監獄で2072人が射殺され、6月26日には、更に2068人の処刑リストが承認された。彼らは6月24日から28日の間に処刑された。こうして、4,140人の囚人がリヴィウ地方で射殺された。

処刑が続いた6月22日から28日の間に、約500人が逮捕された。ラーマンの報告書によると、新しい囚人達の刑務所の書類は適切に処理されていなかった。ほとんどの場合、何の罪状も提示されなかったが、囚人達はOUNメンバー、スパイ、破壊工作員、すなわち処刑されるべき人物であると自信たっぷりにレッテルを貼られた。特に、1,681人がロンツキー通り刑務所で処刑されたが、これはリヴィウで処刑された囚人の42%にあたる。1941年6月末から7月初めにかけて独ソ戦が始まった時、ソ連当局はウクライナの刑務所で合計約24,000人の政治犯を殺害した。

当初、捕虜は通常のNKVDの方法で射殺された:特別な独房で、後頭部に一発ずつ。前線が近づき、計画が達成されないと、彼らは囚人を集団で射殺した。彼らは囚人を地下の独房に集め、食料を渡すためのドアから自動小銃を発砲した。また、NKVDが刑務所に駐屯していた最後の数日間には、手榴弾が独房に投げ込まれたり、独房のドアが開けられ、囚人達は解放されると思って廊下に出たが、その瞬間に自動小銃で撃たれた。

遺体はトラックで運び出され、特別な場所に埋められたが、今日考古学者によって徐々に発見されつつある。しかし、逃亡直前の最後の数日間、NKVD将校は死者を刑務所の庭や地下室に大急ぎで隠した。約700人がロンツキー通りの刑務所の外庭に埋められた。死体は消石灰で覆われた(腐敗を早めるため)。これらの大虐殺の発掘は、後にナチスの反ソ連プロパガンダの材料となった。

今日、1941年6月末にウッチキ通りの刑務所で処刑された者のうち、747人の名前しか知られていない。その内訳は、ウクライナ人509人(67パーセント)、ポーランド人177人(23.3パーセント)、ユダヤ人53人(7パーセント)、ロシア人11人(1.5パーセント)、その他の国籍の人7人(0.9パーセント)であった。

身元が確認された人物の中には、2人の未成年(ソ連では政治犯罪の刑事責任は12歳から課されていた)のポーランド人がいた: 14歳のカロル・スタニスワヴォヴィッチ・ヒル13歳のヴィトルド・マルチチョフスキである。犠牲者の中で最高齢だったのは、78歳のウクライナ人イリヤ・フェドロヴィチ・ミショフリブであった。

1941年6月の終わり頃、ソ連政府の最後の代表がリヴィウを去った。その後、町の人々は刑務所に入った。彼らの目の前に現れた光景はひどいものだった。パニックに陥ったNKVD将校達は、犯罪の痕跡を隠す時間がなかったようで、多くの犠牲者は独房に横たわった。


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