見出し画像

イスラエルの最も強大な敵、蚊と戦った男:イスラエル・クリグラーはイスラエルが存在する理由のひとつである。では、なぜ彼のことを聞いたことがないのか?

The Times of Israel 2012年4月25日の記事の翻訳です。著者:MATTI FRIEDMAN
写真:1925年、パレスチナの国際連盟マラリア委員会。イスラエル・クリグラーは2列目の左端の禿げ頭の男性です (ザルマン・グリーンバーグ提供)

今から92年前、小柄で決意の強い若い科学者が、船から「悪名高いマラリア地帯」であるレバンテの土地に降り立ち、住民を襲う小さな致命的な敵との負け戦の真っ只中に身を投じた。

大学教授であり、シオニストであり、公衆衛生の先駆者であるイスラエル・クリグラーは、1920年代からパレスチナのマラリア撲滅に大きな役割を果たした。
蚊が媒介するこの病気に対抗することは、医学上のささやかな成功ではなく、ユダヤ人入植地の拡大とイスラエル国家の最終的な樹立への道を開いた決定的な勝利だった。

今日、クリグラーとイスラエルの歴史における彼の役割は忘れ去られている。4月25日は、彼を偲ぶにふさわしい日である: 今年は、イスラエルの独立記念日の前夜であると同時に、国連の世界保健機関(WHO)が毎年制定している「世界マラリアデー」でもある。クリグラーの努力のおかげで、イスラエルではマラリアが根絶されたが、世界的なマラリアとの闘いは、驚くほどうまくいっていない: WHOによれば、マラリアは毎年2億1600万人に感染し、65万5000人が死亡している。

クリグラーを熱烈に支持する少数の人々は、彼の成功がシオニストの殿堂入りに値するだけでなく、約1世紀近く前に彼が立ち向かった病気と世界が闘い続ける中で、新たに研究されるべきだと考えている。

1888年に現在のウクライナで生まれたクリグラーは、9歳の時に両親と共にニューヨークに移り住んだ。1920年、ニューヨークで微生物学の博士号を取得し、南米での黄熱病の研究を終えた彼は、アメリカでの有望な学問的キャリアをあきらめ、代わりにイギリス統治下のパレスチナにやって来た。

彼はマラリアによって荒廃した土地を発見した。1921年の英国の報告書によれば、この病気は「パレスチナで最も重大な病気」であった。ユダヤ人が入植のために購入した土地の多くは、マラリアがはびこる低地にあり、(これがマラリアが蔓延した主な理由の1つだった)この病気はシオニスト開拓者や国の他の住民を壊滅させていた。その結果、いくつかの入植地は完全に放棄された。

1902年に訪れたある訪問者は、ある国境の駐屯地のトルコ人兵士は、1週間あまりで全員がマラリアに感染してしまうため、毎月入れ替えなければならなかったと述べている。イギリス軍が到着した1917年の報告書には、パレスチナは「マラリアが蔓延していることで有名」であり、ベイサンの町(現在のヨルダン渓谷にあるベイト・シェアン)にいたイギリス兵の推定90%が10日以内に発病したと記されている。

「ここ数世紀のパレスチナの停滞状態は、ほぼマラリアによるものであることは間違いない。」とクリグラー自身が、到着から10年後に書いている。

「かつて有名だったベト・シャンという都市は、集中灌漑計画の真っ只中にあったが、時間の経過とともに、完全に水浸しの沼地に囲まれ、マラリアが蔓延する地域の中でも最もマラリアが蔓延する場所の1つとなり、小さな村まで衰退した」と彼は書いている。

海岸沿いの平原について、彼はこう書いている。「豊かな水に恵まれ、耕作可能な土地の広大な土地に、マラリアに感染した少数のベドウィン部族だけが住み、沼地の葦で作った籠の収益と、湿地に生息する水牛の乳で、かろうじて生計を立てている。

シオニスト計画が成功するためには、この状況を変える必要があった。

当時、マラリアは主に南米のキナノキの樹皮から作られるキニーネ錠剤を投与することで治療されていた。パレスチナの入国許可証の裏に印刷されたメッセージには、新移民に「仕事場でも、家でも、旅先でも、キニーネを常備するように」と促し、キニーネが「病気から身を守る最良の方法」であると付け加えられていた。

「蚊はあなたの敵です。」「蚊に近づかないようにしましょう。」と書かれていた。

これはうまくいかず、クリグラーには別の考えを思いついた: 人間ではなく、蚊に集中的に取り組めば、マラリアに耐えるだけでなく、撲滅できる。クリグラーが設立に携わったマラリア研究所は、最終的には数百人の従業員を抱え、沼地の排水や幼虫が集中している場所への散布を開始した。彼は様々な種類の蚊に対処する方法を開発し、用水路の水の流れる方向を定期的に変えて、その中で繁殖する蚊の個体数を減少させるなどの方法を考案した。

英国委任統治下での公衆衛生の全般的な改善と相まって、その結果は驚くべきものだった。例えばエルサレムでは、イギリスの統計によると、1923年には633人がこの病気の治療を受けていた。その翌年には347人にまで減少した。

その4年後の1928年には16人だった。

1925年、国際連盟保健機関(現在の世界保健機関の前身)は、マラリア委員会をパレスチナに派遣した。第一次世界大戦後にヨーロッパでマラリアが再流行し、差し迫った問題となっていたからだ。委員会のメンバーはクリグラーに会い、彼のプログラムの成功に衝撃を受けた。

パレスチナでのマラリア撲滅活動は、その最終報告書の中で、「悲観論を打ち砕き、希望を喚起し、機が熟せば、多くの有用な経験を我々に提供することによって、実用的なマラリア学にとって歓迎すべき貴重な追加となり、この活動を行った人々は、パレスチナ住民だけでなく、世界全体にとっての恩人とみなすされるだろう」と記されている。

このキャンペーンの直接的な成果として、以前はほとんど人が住めないと考えられていた土地に入植できるようになった。クリグラーが1944年に55歳で亡くなる頃には、病気は急減していた。1967年までに、イスラエルはマラリアが完全に根絶されたと宣言した。

クリグラーが亡くなった当時、その名は広く知られていた。「I.クリグラー教授の早すぎる死によって、イスラエル人とその土地(国)は、行動力と能力のある人物を失っただけでなく、何よりもまず、献身的で忠実なシオニストを失った 」と1944年にハダッサ病院のニュースレターに書かれている。

今日、クリグラーの忠実な支持者2人が、イスラエルとマラリアとの闘いの歴史において、クリグラーを正当な地位に戻そうと孤独な闘いを繰り広げている。

その一人、アントン・アレグザンダーは引退したロンドンの弁護士で、2年前、イスラエルの科学的業績に関する展示会の企画に協力している時に初めてクリグラーの名前を知った。それ以来、アレクサンダーはクリグラーの伝道師のような存在となり、ウェブサイトを立ち上げ、科学者とその業績をプロモートしている。

「クリグラーは、マラリアに取り組まなければシオニストの夢は崩壊すると考えていた。」とアレクサンダーは語った。「彼らがマラリアに取り組まなければ、国家は存在しなかったでしょう」。

アレクサンダーはクリグラーの名前をグーグル検索して、ザルマン・グリーンバーグというイスラエルの科学者を見つけた。エルサレムにある厚生省の公衆衛生研究所の元所長であるグリーンバーグは、クリグラーが不当に見過ごされているという感覚を共有し、科学者(クリグラー)の義理の娘の住むニューヨーク州ホワイトプレーンズの屋根裏部屋で3日間かけて資料を撮影するなど、数年前から彼に関する資料を集めていた。

グリーンバーグはイスラエルの医学史に精通しており、過去2世紀にイスラエルで行われた全ての微生物学研究の1,500ページに及ぶ文献目録の著者である。同氏によると、クリグラーは唯一無二の存在だという。

「彼のような人はいませんでした。」「彼が見過ごされてきたことは、我々の歴史家にとって恥ずべきことです。」

クリグラーが忘れ去られたのは、ヘブライ大学の同僚たちにあまり好かれていなかったようで、他の医学のパイオニアたち、特にマラリアと闘ったシオニストの医師で、彼の名を冠した病院もあるヒレル・ヤッフェが記念碑に刻まれたのに対し、クリグラーは見過ごされたからだとグリーンバーグは言う。今日、彼の名前を聞いたことがある人はほとんどいないだろう。

クリグラーの遺産はイスラエルにとってだけでなく、現在進行中の世界的なマラリア撲滅の努力にとっても重要である、とオランダを拠点とするマラリアの専門家のためのフォーラム「マラリア・ワールド」を運営するバート・ノールズは言う。この問題を解決するマラリア・ワクチンを待ち望んでいる医療関係者は、クリグラーから何かを学ぶかもしれない、と彼は言う。

「ワクチンなしでもマラリア撲滅は可能です。」「当時のパレスチナのマラリアは、今日のアフリカの多くの地域で見られるマラリアと同じかそれ以上にひどかったのです。」

「今日私達に欠けているのは、当時あった決意、つまり、自分達ならできるという信念と炎天下で働く意志です。」とノールズは語った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?