見出し画像

分断のはざまで立ちすくむ

いつからだろう、「分断」という言葉に引っかかるようになったのは。

2020年9月に書いた手元のメモに、
『人間ならば誰にでも、現実の全てが見えるわけではない。
 多くの人たちは、見たいと欲する現実しか見ていない』

という、Julius Caesarの言葉が書いてあったから、きっとその頃からか。

1年以上経ってもまだまだ収束する気配の見えない新型コロナウィルスのせいなのか。今まで抑え込まれていたり、見えていなかったものが、立ち現れてきているタイミングだったということなのか、、。
私がなぜその言葉に引っかかってモヤモヤしているのか、まとまる気はしないけれど、書きはじめてみます。(結果、超長文になった。約5,000字。)

1)2020年9月、私に起こったこと。

1年半越しに友達とごはんに行った。お好み焼きを食べた。それだけ。
当時の私は、「なんだかうまくいかないぞ」と感じていて、「私がみている世界と、周りの人がみている世界は結構違う気がする。そしてその溝は結構深い気もする。」と大変モヤモヤしていた。
そのモヤモヤを乗り越えていこうとしてもうまく伝えられず、なんだか、私だけ違う世界にいるようで、孤独も感じたりしていた。

お好み焼きを食べながら、久しぶりの雑談と共に、そういう内容の話をしたときに、「やーーわかるよ、わかる!そこに気づいてた人がいたのか!」と友達に言われて、「おお!ここに同じ世界を見ている人がいたのか…!」と心の中で結構感動していた。

その時もnoteに書き起こそうとして、最初のカエサルの言葉をメモしていたんだけど、なんだかうまくまとまらなくて、真意が伝わらず、誤解されてしまうような気がして途中でやめた。(実際には2,000文字くらい書いてた。もう旬も過ぎたし、お蔵入り。)

そんな感じでモヤモヤははじまり、大きくなっていったんだけど、それには世の中で起こっていることへのアンテナの立て方とか、感じ方もあったんだと思う。

2)昨年(いやもっと前?)から世の中で起こっていたことと、それに対する私の思考

ここ数年の私的「分断」な出来事として、パッと思いつくもの。

・芸能人や政治家の不倫や不祥事に「やんや、やんや」いう多くの人たち
・コロナ禍における自粛警察、デマに踊ってしまう人たち
・アベノマスクと言われる、コロナ禍初期の布マスク騒動

もちろん見ていて不快な言動や怒れる言動って山ほどあるし、声を上げなきゃ変わらないことだってあるから、全てを否定するつもりは全くない。
でも、どれも、お互いの正義と正義がぶつかり合って、起こっているような気がしていて、「自分はこちらの考えに近い」とは言えても、「自分はどちらが正しいと思う」なんて言えないなと思っていた。

や、そもそも「こちらが正しい!」って自信を持って言えたことってあっただろうか、、。いつも「こちらの方が私は心地よいから、こっちにして欲しいな(なったらいいな)」という言い方だったような気がする。

その奥歯に物が挟まったような言い方の裏には、一般的には「正しいと思われるほう」かもしれないけど、でも、それは、「必ずしも普遍的な正解ではない」とどこかで感じていて、自分のこの不快やムカつくという受け取り方や評価は独善的ではないだろうか、、という恐れがあって、「唯一無二の正解」はないと思っているはずなのに、「間違えたくない(非難されたくない)」と不安になり、立ちすくんでいたんだろうと思う。

加えて、その「善悪/正誤」の「評価/判断」が「分断」を生んでいるような気もしていて、どちらかだけに加担するのはなあ、、とモヤモヤ・葛藤していた。(正しくは、現在も葛藤している。)

3)私のモヤモヤ・葛藤の中にある問い

ここにはモノゴトを捉える前提として2つの問いがある。
1つは、モノゴトの表面だけ見て判断していないか?ということ。
そしてもう1つは、モノゴトを捉える軸・立ち位置はそれでいいのか?ということ。

【1モノゴトの表面だけ見て判断していないか?
自粛警察とかSNSで中傷するとかそういう行動の殆どは、ありがた迷惑だし、そんなやり方選ばなきゃいいじゃん、ちょっと方向性ずれてる気がするし、それ誰も幸せにしてないよって思うものばかりだけど、根本の思い・大切にしたいことも非難に値するものなんだろうか。
想いを表現する手段がどうだったかは置いといて、「周りの人の幸せを守りたい」という思いから行動した人もいるのではないだろうか。
そんな、良かれと思って、親切だと思って、使命感や正義感に燃えて、やっている人たちに対して、その「善意」と向き合おうとせず、表面にあらわれた行動だけで頭ごなしに否定するのは何か違うんじゃないかな、、、と。
(もちろん、表面の問題はちゃんと問うべき。どんな理由があっても、相手を傷つけていい理由にはならないはず。とりうる手段・表現方法は1つではなく選べることの方が多いから、自分の行動に自覚的になって、本当にそれで良いのかはちゃんと問う必要はある。)

2】モノゴトを捉える軸・立ち位置はそれでいいのか?
独善的という言葉に繋がるけれど、自分の立つ時間や場所によって、良し悪しの判断や、問題の大きさや深刻さの評価も変わってくるのではないだろうか。
もちろん、国内外問わず法的に犯罪とされているものもあるし、犯罪とは言わずとも不法行為にあたるものもある。でも、それも、その法律下においては「間違いや誤り」だから非難されうるんだけれど、過去未来永劫に同じように「間違いか誤り」かどうかはわからない。例えば、時の流れによって見直されてきたもの、刑法でいえば、尊属殺人とか、強姦罪とか。民法で言えば、非嫡出子の法定相続分とか、再婚禁止期間とか。
と思うと、法律がそうだからといって思考停止になって、否定・批判・非難するのは嫌だなあと。

あと、このポスターがいつも頭をよぎっていた。(これは立場によって見え方が変わる例ですね。)

スクリーンショット 2021-04-18 20.47.44

出典:https://www.pressnet.or.jp/adarc/adc/2013/no1_b.html

4)「分断」の何が引っかかるのか

私のモヤモヤ・葛藤から生まれた問いをもう少し発展させて、「分断」に対する引っ掛かりを紐解いてみます。
現時点では、「分断」が起きているところには、本来大切にされるべき、「ありのままを見つめ、違和感に向き合う」「お互いの違いを認め、受け止める」「お互いの溝を埋めにいく(もしくは、橋をかけにいく)」という3つのスタンス・行為の欠如があるかもしれないなと思ってます。
この3つの何が大切だと感じているかを以下にまとめます。

【1】ありのままを見つめ、違和感に向き合う
まず最初はこれです。だって、もともとこうじゃないですか。

君と僕とは別の人間だから 好みが違う 歩く速さも 想いの伝え方も
(『Mysterious Eyes』by GARNET CROW)

そりゃ、おんなじ人間ばっかりだったら苦労しないし、心地いいかもしれないけど、違うからこそ、驚きがあるし、化学反応が起こるし、日々に彩りが加えられるし、進化していく。
だからこそ、何か衝突が起きたときや違和感を感じた時は、その時の気持ちや違和感を放置せずに向き合い、味わうことが第一歩。
そして、「お互いに全ては分かり合えていない」を前提として向き合う。

違う人間だし、分かり合えていないのだから、自分の視点で見ている世界と、相手の視点で見ている世界には何かしらの違いがあるはずだし、だからこそ、まずは、目の前の出来事に勝手に解釈・評価・判断・分析を加えず、まずはフラットにありのままに観察する。

これはNVCの観察であり、ナラティヴ・アプローチの準備・観察に近い。

【2】お互いの違いを認め、受け止める

そして、その背景に何があるのか、それを互いにどう受け止めたのかに思いを馳せる。そこでも大事なのは、ひとりで早合点しないこと。ちゃんと相手に確かめること。自分ひとりで想像して作った仮説は、往々にして自分の解釈が入ってしまうので、ちゃんと確かめる。
そして、「違う」ということを改めて認め、その上で「違っていいんだ」とちゃんと受け止める。
この私の気持ちに近い曲としてこの曲が浮かんだので、のっけておきます。(島根に来てから、何だか重なることが多くて、この曲聴くと泣いちゃうようになりました)

特に好きなのがこの部分。(2:57くらいから)

君は君で僕は僕 そんな当たり前のこと
何でこんなにも簡単に 僕ら 見失ってしまえるんだろう?
ひとつにならなくていいよ 認め合うことができればさ
もちろん投げやりじゃなくて 認め合うことができるから
ひとつにならなくていいよ 価値観も理念も宗教もさ
ひとつにならなくていいよ 認め合うことができるから それが素晴らしい
(『掌』by Mr. Children)

まんま、本当にこのまんまなんですけど、『ひとつにならなくていいから、認め合おうよ』ということ。どうにもムカつくし、不愉快な相手だとしても、自分がその人だったら同じように振る舞ったり感じるかもしれないよねという可能性を受け入れ、自分との間につながりを見出すことに向かって歩き出す。

ここは、NVCの感情・ニーズに共感していくフェーズであり、ナラティヴ・アプローチの観察・解釈に近いかな。

【3】お互いの溝を埋めにいく(もしくは、橋をかけにいく)

最後は、歩み寄ること。
相手を自分の意のままに変えようとするのではなく、両者にとっての正論を作り出していく。

ここは、NVCのリクエストであり、ナラティヴ・アプローチの介入。

ここがいちばん難しいことだし、ついつい諦めて、放置してしまうんだけど、これを諦めていては「分断」は解消されない(はず)。

双方がその気にならなきゃ、溝は埋まらないし、橋はかからないんじゃと思うけれど、まずは私一人でもそのスタンスに立てていることで変わる世界があるはず。(バタフライエフェクトを信じる。)
この点、この本のこの部分に勇気づけられたので、少しだけ抜粋。

現実は社会的に構成されている、社会の中身は会話である、
だから、私たちは何を語るのかによって、
現実を本当に少しずつだけれど、変えていくことができるかもしれない。
(『他者と働くー「わかりあえなさから始める組織論ー』宇多川元一・著)

5)つまり、何が言いたいのか

時間はかかるだろうけれど、「分断」は超えられる。きっと。

向き合うのは苦しいし、向き合えば向き合うほど自分の無力さにも気付かされてさらに「うぅぅ」ってなったりするけど、私は諦めきれない。

世の中を甘く楽観的に考えているのかもしれないし、カッコつけているだけかもしれない。

けれど、「自分がどんなに頑張ったって世界は変わらない。だから、自分や周りさえ良ければいい。だから自分や周りの50cmを変えていく」と諦めるのではなく、「きっと誰にでも、現実を、未来を変えていく力がある。たとえすぐには何も変わらないように見えても、行動し続けることに価値があるし、自分の行動によって何らかの影響は及ぼしている。だから、自分や周りの50cmから変えていく」と私は思っていたい。

立ちすくむ日もあっていいし、でも、そこで見ないふりをせずに、一歩でも、半歩でも踏み出していきたいし、その方法の模索を続けたい。

そのための武器が、私にはある。
NVCであり、ナラティヴアプローチであり、進化思考。

この投稿にも多分に影響を与えているこの3冊。

進化思考が今週発売される(4/21にようやく発売!)からか、
今週末に久しぶりにNVCワークショップをやるからかわからないけど、
ここでセーブポイントnoteを書けたのは良かった(と自己満足)。

少しずつでも前に進む。

備忘メモ)もう1つ気になっている「分断」

まだ思考が深められてないけれど、こんな「分断」も気になっています。

私の周りのいろんな町の首長選挙で起こっていたこと。
・革新的かつ外部からとても評価されていた市長が引退したら、後任は真逆の政治方針の市長に
・自分のSNSに流れてくる情勢とは全く違う選挙結果が出る

これは、上記とも似ているようで、違うような。
延長線上にある1つの現象のような気もするし。
今後、タイミングが来たら考えてみたいテーマとしてメモ。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!