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彼女は僕に嘘をついていた

 彼女は僕に嘘をついていた。

 彼女と出会ったのは去年の夏の縁日であった。
 仕事帰りにふらっと立ち寄った縁日の人混みにうんざりしていた中で偶然彼女を見つけた時は、呼吸が止まるかと思うくらいの衝撃だった。生まれて初めて一目惚れというものを経験した。
 何より僕の心を掴んで離さなかったのは、彼女の目だった。丸っこくて潤んだ黒い彼女の2つの目は、今まで見たことのある中で最も美しいものだった。しばらく目が離せなかった。そして、彼女も僕と同じ気持ちであることがわかっていた。初対面で相手の気持ちがわかるだなんて、何故かはわからない。わからないけど、わかるのだ。彼女の全てがわかるのだ。わかるから前に進めるのだ。彼女の深淵な黒い目のように、そこには一点の曇りもなかった。
 ただ、お互いずっと見つめあっていた。その時間だけ縁日の喧騒も僕の世界から消え去った。彼女と僕しかその世界にはいなかった。もうその目を見ているだけで、どうしても彼女を自分のものにしたいという気持ちが湧き上がった。衝動が僕を飛び越えた。

 彼女と一緒にいた男に金を渡して彼女を連れ歩くことになった。彼女も黙ってついてきた。そんなことをしたのは人生で初めてだった。
 彼女と歩く縁日は僕の人生の中で最も充実した時間だった。屋台なんかどうでもよかった。ただ、彼女と僕だけがいればよかった。
 彼女の全てが理想だった。目の他にも、全て。小さめな体も肌の色もゆっくりとした動きもなんか艶々した感じも、全てが僕の理想で、全てを好きになってしまった。
 途中勇気を出して彼女の手に触れたのだった。突然のことに彼女は一瞬びくっと動いたが、すぐに落ち着いた。僕の手と彼女の手は静かに触れるのだった。僕の手は夏の暑さなのか緊張なのか汗ばんでいたし、彼女の手も湿り気を帯びていた。お互い黙って、お互いの感触を確かめあった。

 その日の夜から僕らは一緒に住むことになった。言葉なんていらなかった。本当に自然な流れで一緒に僕の家に帰った。
彼女と共に過ごした最初の夜、僕は興奮して寝れなかったし、彼女も落ち着かない様子だった。
 僕は彼女の幸せのためだけに生きていこうと、決意を固める一夜だった。

 彼女との生活は困難も多かった。彼女はちょっとデリケートな性質なのだ。僕にとっては初めてのことだらけで大変だった。でも、彼女のわがままさも面倒さも全てが僕の幸せだった。
 早速次の日から彼女に部屋を用意することにした。より快適に一緒に住むためには彼女には絶対必要だと思ったからだ。貯金を全部使うことになったが、完成した時に彼女は非常に喜んでいる様子だったので、それだけで僕は満足だった。
 彼女の食事も僕が用意した。野菜でも肉でも魚でもパンでも、僕が出したものはなんでも食べてくれたが、どうやらエビが大好物らしいことが寡黙な彼女の様子からわかった。エビは僕も小さい頃から大好きだったので、やはり彼女とは生まれた時から運命で繋がっているのだと感じた。
 彼女は夜が一番元気だった。なかなか寝かせてくれない日々が続いたので、彼女と住むことになって以来、昼間は眠くて仕事にも影響はでたが、彼女の存在がいるだけで他の全てが色褪せた。
 僕は昔から献身的な人間なのだ。むしろ献身性を発揮することによって人生の喜びと生の実感を得られるタイプなのだ。彼女と僕の相性は最高だと思っていた。思っていたのだ。

 その日は突然訪れた。知りたくないことを知ることになった。
 仕事が終わって家に帰ると彼女の様子がおかしかった。寡黙な彼女はただその小さな体を震わせるだけで何も言ってくれない。ただ、苦しそうなことだけはわかった。
 僕は急いで、彼女を連れてお医者さんのところへ行って彼女を診てもらった。そこで衝撃の事実を知ることになった。

 彼女は僕に嘘をついていた。

 お医者さんから告げられた。
 その瞬間僕の世界が死んだ。
 神が死んだ。
 運命なんてなかった。
 彼女と過ごした幸せな日々は全て僕の妄想にすぎなかった。
 「死に至る病は絶望である」ということを体感的に知ることになった。
もはや僕には、僕が死ぬか、彼女を殺して僕も死ぬかの選択肢しかないように思えた。
 どうしてそんな大事なことを隠していたのか。
 彼女をみると彼女はただ丸っこくて潤んだ黒い2つの目でこちらを静かに見返すだけだった。
 そう、わかっている。
 正確には、彼女は嘘をついていたのではなかった。
 何も言わなかっただけなのだ。
 勝手に思い込んでいた僕自身の罪だ。

 彼女は、「彼女」ではなかった。「彼」だった。

 性別自体に重きを置くのがナンセンスだというのは頭ではわかっている。でも、僕と彼女、いや彼との関係においては大事なことだった。
 初めて出会った時に感じた運命が幻だったことを突きつけられてしまった。そこには一点の嘘も許されない。
 一つでも違うものがあるならば、丸っこくて潤んだ黒い2つの目から受け取ってきた全てが違うものになってしまうのだ。
 もう戻れない。

 彼女、いや彼は消化不良を起こしているだけだというお医者さんの説明も耳に入らず、僕は彼女、いや彼を抱えて走り出した。
 心臓がはち切れそうになるほど走って川についた。
 水辺に彼女、いや彼をそっと下ろした。
 彼女、いや彼は丸っこくて潤んだ黒い2つの目で僕を一瞥し背を向けると、静かにゆっくり川の中に歩んでいった。彼女、いや彼の小さな体は冬の川の煌めきの中に消えた。

 川べりにあった看板の文字を見て思わず蹴ってしまった。怒りなのか悲しみなのかわからないが、激しい感情と共に全力で蹴ってしまった。打ち所が悪くて右足を捻挫してしまったようだった。
 しかし、捻挫の痛みは消えるが、僕のこの心の痛みは一生消えないだろう。僕の蹴りは無力で無価値なのだ。

 看板に書かれていた「カメを絶対に川に放してはいけません」の文字も、消えることはなかった。

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