見出し画像

バスケが観たい、ということ

喪失感は自覚するとさらに悲しくなるから、バスケットが観たい、ということに関して書かないように書かないようにつとめている割には、普通に毎日今日もルークさん(私の好きな選手)は元気だろうかと思っているし、今週末もバスケがないのか、と思っている。


元の生活が戻ってこないという前提で暮らすのであれば二度と現地であの距離であのプレーは観られないわけで、それを考えるとたまらなく悲しくなるわけだけど、たとえ配信だけになったとしてもプロスポーツ選手がそれで生きていける世の中であって欲しいなと思うし、できたらこれをきっかけにそれが貴重な機会とするならば、バリューのあるものになってくれたらなとも思う。


すっかりNBAのSNSですら直近の動画が品切れになって、まだテレビの縦横比が違う時代のカサカサの動画でクラシックなレジェンドを流したりしているけれど、すごいものはいつの時代もすごくて、それに感動したりすることを忘れたくないなと感じた。


ヒヤヒヤしたシーソーゲームの胃の痛みとか、勝ちたさに拳を強く握る展開とか、がっくり肩を落として帰りの電車に乗るあの切なさとか、ペットボトルの水を空にして使った喉を潤すとか、もう遠い遠い昔のことみたいになってしまったけれど、バスケ選手のやるプロのバスケットがやっぱりまた観たいなと思う。


こんなときだから、そうこんなときだから、バスケットは後回しなのだろうけど、こんなときでもバスケ選手として、存在していてくれることは、それだけでとても嬉しいことだ。私はバスケの感動がなくて寂しいし、試合そのものが恋しいから、それをたまには書かないと胸が痛む。好きだと再確認する作業は好きなものに再び巡り会えたときに喜びが増えるであろうことを信じている。


自粛をしてみてわかったのは、私はお弁当や普通のご飯は買うより美味しいものがまあまあ作れるし、カフェが恋しくてもコーヒーとケーキなら用意できるし、学校のない子どもたちにどうにかこうにか授業はすることはできるし、家にいろと言われたら庭の花を眺めて撮り続けて待つけれど、ルーク・エヴァンス選手のバスケットボールを観る喜びに代わるものはどうしても見つからない、ということだ。


2020.05.16.