【映画考察】「君たちはどう生きるか」を君たちはどう見るか 【ネタバレ有り】
最近話題になっているジブリの最新作、「君たちはどう生きるか」を映画館に見に行った。
正直なところを言うと、意味がわからないというのが最初の感想だった。父と見に行ったのだが、普段は帰りのバスで映画や芝居の感想をよく語る私たちが、映画の内容にバスの中で言及しようとしないくらいにはお互いによくわからず、「2000円(映画のチケット代)の価値があったかわからない」という感想に落ち着いてしまったほどなのである。
しかしながら私はアニオタであり、何より自他共に認めるケチだ。2000円の価値が映画にないと思ったなら、価値を見出せるまで考察して映画を味わい尽くしてやろうじゃないかという話である。
しがない1人のアニオタが2000円の価値を見出す奮闘にお付き合いいただけると幸いである。
【「君たちはどう生きるか」は、宮崎駿が作ったことに意味がある!】
私と父親がなぜ「よくわからない」と評価したかの理由は大きく二つある。
ストーリーや世界観に魅力を感じなかった
上映時間が長い(なんと124分である。最近は2時間越えの映画も珍しい)
まずこの二つを捉え直すところから始めた。
「ストーリーや世界観に魅力を感じなかった」は、「本当に魅力的な部分はそれ以外にある」と置き換えることができる。思い返してみると、私は「宮崎駿の最新作」として映画作品を見ていたため、彼らしい壮大なエンタメファンタジー、まるで玩具箱のような世界観を求めてみていたように思う。しかし、今回はその捉え方が通用しないのだとしたら?これは「宮崎駿の最終作」扱いを世間でされている作品であり、本当に見てほしいのは映画の根本的な部分なのだとしたら?
また、「上映時間が長い」は、そこまでして詰め込みたかった、伝えたかった何かがあると考えることができる。
ここまで考えて私は思い至った。
この作品は「映画自体のエンタメファンタジー」をみるものではなく、「宮崎駿が最終作をもって伝えたかったもの」として捉えるべきなのだ。「日本アニメ界を牽引してきた宮崎駿が今までのファンタジーの面白さを捨ててまで作った作品」として、初めて意味をなす映画作品なのである。
では、宮崎駿が映画を通して伝えたかったものとはなんだろう?
【考察点1 作品や主題歌から感じる宮崎駿自身の自己投影】
本作品の監督・宮崎駿は、終戦4年前の1941年に生まれ、幼い頃に児童疎開を経験している。「君たちはどう生きるか」は、主人公・眞人の母親が空襲の業火で亡くなるところから物語が始まり、眞人も宮崎駿と同様、父親と共に疎開をし、そこからストーリーが始まる。
また、本作の主題歌である米津玄師の「地球儀」の歌詞にも
と、「戦争の経験」という瓦礫(越えていかなければならない辛いものの象徴)を越えていく描写があり、米津玄師も本人のX(旧Twitter)にて、(曲について)「宮崎駿との話し合いを重ねて制作した」と語っている。
この際、米津玄師は文面に「お話をさせていただいた」と言う言葉を使っており、楽曲に関しての説明を受けたわけではなく、話し合いを重ねて作っていくものだったことが推測できる。ここに宮崎駿自身の思想や経験が詰まっているのではないか。
これらの要素から、同じように戦争経験をしている眞人に宮崎駿が自分を重ねていると考えられるだろう。
ただ、一つ疑問に思うことがある。自己投影の対象は本当に主人公の眞人だけなのだろうか?
宮崎駿自身児童疎開はしたが、母親の死因は映画のように焼死ではない。宮崎駿の母親が結核を発症して9年間寝たきりになったのは1947年のことであり、時期的に戦争は関係していないのだ。物語の主人公と自分の境遇を全く重ねるのなら、自分から見えたものをそのまま映像にするはずだが、それをしてない。
すなわち、この映画がただの自伝映画で、「私(宮崎駿)はこんな人生を歩んできた!君たちはどう生きるんだい?」と聞いているわけではなさそうなことがわかってくる。
自己投影の対象が眞人だけでないとしたら、他にも投影しているキャラクターはいるはずだ。それは誰なのだろう。
【考察点2 本を読みすぎた大叔父】
私が考えたもう1人の自己投影の対象は、眞人の大叔父である。
大叔父はこの作品の最初の方に、「頭脳明晰な人だったが本を読みすぎて頭がおかしくなった」と描写される人物で、家の近くに大きな塔を建てて以来行方不明になっていた。
彼が結局何をしていたかというと、眞人がのちに迷い込む「下の世界」という、ここで説明するのも億劫になるほどカオスな世界に世界の創造主として留まり、自分の血を引くものを後継として、世界を継がせようとしていた。
この作品の中で大叔父とは、クリエイターとしての宮崎駿に限りなく近い存在である。
まず、創造主として自分の生み出した世界にとどまるというのは、今まで生み出したファンタジーの世界に閉じこもるクリエイターという立場から生まれる世界観である。眞人の大叔父が留まっていた世界は、今まで数々のヒット作品を出してきたクリエイター・宮崎駿がファンタジーに表現した、自身の頭の中だと考察することができる。
また、「本を読みすぎて頭がおかしくなった」は、宮崎駿の自嘲的な表現の可能性がある。有名な話なのだが、宮崎駿はかなりの読書家だ。同じくスタジオジブリのプロデューサー・鈴木敏夫も読書家として知られているが、彼は宮崎駿監督と高畑勲監督の話についていくために、彼らの話題に出てくる本を片っ端から読んでいった時代があったと言われている。また、アニメ映画制作が佳境になる時、宮崎駿自身も追い込まれて作業をするのだが、そんな時でも制作現場に持ち込んだ大量の書籍を読破してしまうというエピソードもあるくらい、宮崎駿と読書は切っても切れない関係にあるのである。
では、クリエイターとしての宮崎駿・眞人の大叔父はその後どうしたか。
大叔父が眞人に世界の創造主として世界を引き継ぐことを望んだところ、眞人は「僕は新たな形で世界を作っていく」と言い、結局大叔父の世界を引き継ぐことはしなかった。
宮崎駿というクリエイターとは別に、新たな形で世界を作っていく存在・・・それはまさしく、現代のアニメーションクリエイターたちではないだろうか。
本作は、大叔父の望みを断った眞人が「下の世界」を離れ、現実の世界に戻っていくところでストーリーが終わっている。つまりこの作品は、宮崎駿が、自分とは異なる新たな形でアニメーションを進化させ続けていく、現代のアニメーションやそのクリエイターたちに希望を託すために生み出された作品なのかもしれない。
これを踏まえて、最後の考察点を見てもらいたい。
【考察点3 これまでと異なる表現】
今回の映画を一度見ていて、これまでのジブリ映画を知っている人たちは、劇場で違和感を感じたかもしれない。今回の映画は、ジブリらしい人間や物の質感の表現が薄く、とても現代的な動きのアニメーションが多い印象だった。
私がジブリらしい人間的な質感を感じられたシーンは、主人公の眞人がベットにダイブするシーンくらいで、特に動きが速いシーンは、自然すぎるほどの足運びで走っていたり、風に靡く服の動きも手書き感が薄く、いわゆる「神作画」というやつだった。
劇場でエンディングテロップを見て私が驚いたのは、下請け会社のラインナップだ。
下請け会社とは、メインの制作会社(今回の場合はスタジオジブリ)だけで作り切れない部分を発注され、その部分の作画や演出などを担当して、映画全体を完成させる会社のことである。
ジブリはあまり下請け会社を出さないイメージだったのだが、今回の映画のエンディングテロップには、下請け会社にufotableとProduction I.Gの名前があったのが衝撃だった。
ufotableといえば、「鬼滅の刃」「fate」「刀剣乱舞」など、世間的にも作画力が評価されている作品を制作してきた、今とても勢いがある日本のアニメーション制作会社である。
そして、Production I.Gは、「テニスの王子様・新テニスの王子様(いくつかの会社と共同制作)」「ハイキュー!!」「進撃の巨人」など、長寿作品でありキャラクターや物体がよく動く作品を多くてがけ、スポーツアニメという難しいジャンルにおいて絶対的な信頼があるアニメーション制作会社である。
この二社だけでもすごいのに、今作には他にも多くの下請け会社があり、現代のアニメーションの技術も総合して作った作品であることがわかっていただけるだろう。
まさしく、次世代にアニメーションを引き継ぐ役割を持った映画だったことがわかる。
【結論 〜「君たちはどう生きるか」はコンセプチュアルアート〜】
コンセプチュアルアートとは、現代アートにおける用語で、「制作する上での技術的な熟練度よりも、作品に込められたコンセプト(=含意、思想、観念など)を重視するアート」を指す言葉である。
今作「君たちはどう生きるか」は、歴代のジブリの作品たちに比べシンプルなキャラクターデザインや、現実世界とファンタジー世界にはっきりとした境界があることなどが特徴的な作品である。ファンタジー世界に視聴者を誘うことが目的なら現れないようなことが特徴となっているこの作品で、普段ジブリ作品を見る時の視点を捨て、コンセプトに注目して考察していった。
そうすると、宮崎駿の次世代のアニメーションへの期待と問いかけが感じられ、タイトルの意味あいも変わってくるように思われる。
「君たちはどう生きるか」→「次世代のアニメーションはどう進化していくか」
宮崎駿の生み出した世界とその根本に触れられ、触れられたことには考察しないと気づかない。そんな映画に出会い、時間を使えたことに感謝し、2000円以上の価値を確実に見出せたので、考察をここで終えることにする。
【後書きという名の蛇足】
2000円の価値を自己生産しようという、スタジオジブリや世の中にある数々の映画評論、何より宮崎駿氏に土下座をして回らないといけないような、実にくだらない理由から文章を書き始めてしまったブログが、想像の5倍くらいは長くなってしまったことを今ここでこの世に謝罪しようと思う。本当にすみませんでした。
最初にも前置きをしたが、私はしがない1人のアニメオタクで、別にジブリオタクというわけでもないし、世間で話題になるまで「君たちはどう生きるか」を見に行こうとも考えていかなった、愚かなオタクなのである。
そして、このブログは「君たちはどう生きるか」を見に行こう!と呼びかけるブログというわけでもない。映画ど素人の私の解釈が公式見解な訳でもなければ、そもそも私にはストーリー全体を理解しきることはできなかった。この作品は一枚岩なわけでなく、私が語らなかった要素として、眞人のお母さんや、友達(=青サギ)もある。正直なところ私はこの二つの要素は解釈しかねた。青サギは最終的に眞人と互いに友達となるが、彼らがいつどのタイミングで友達になったのかはよくわからないし、眞人の2人のお母さんの存在も作品において大きな存在だったが、私の考察には入ってこなかった。母や友達の存在がメインテーマなのかも、ゲームの隠し要素的存在なのかもわからない。
そして、この考察にしても、「コンセプチュアルアート的な映画だ!」と思い至った時に、私の学友(映画未視聴)に話してみたところ、「作品自体の世界観に触れたいから、後ろの監督の存在が見えるのは嫌だな」や「宮崎駿に説教されるために映画館に行きたくない」など、行く気が起きなかった学友もいた。
だから、確実に好みが分かれる作品な上、解釈はさらに分かれる作品であると思う。このブログのタイトル通り、「君たちはどう見るか」、私も興味深いところだ。
私が最終的に2000円の価値を感じられたからと言って、これを読んでいる人にとって同じように2000円の価値を感じられるかは全く保証ができない。
それでも、一つだけ保証できることがある。
映画を見て考えて自分なりの意見を出すのは、絶対に楽しいということだ。