「自分ではない誰かのため」に生きてはいけない

前回noteへの反響と友人との議論を経て、マイナーチェンジ版を書くことにしました。
この記事だけでも問題なく読めます。

自分や他人の行動や生き方を「自分ではない誰かのため」だと言う人は、
①本当は自分のためだけどそう言いたくない
②自分の行動や生き方の責任から逃れたい

のどちらかでしかないのでは。
と、私は前回書きました。

それからしばらく経って、友人からそれは違うのではとの感想をもらいました。
曰く、
・日本人の多くは良く言えば概ね善良で従順、悪く言えば長い物に巻かれやすい。
・情けは人の為ならずという言葉が日本語にはあり、それに沿った教育を受けている。
・輪を乱すことを嫌う。
これらの特性から、
③他人のために行動するのが正義であり、正解だと認識している
④権威ある人の言うことを聞かないことが不得手で、ゆえに搾取されやすい

という結論が導かれるのではないかとのことでした。

①②を意識している割には発言者が得をしているように見えず、
自分の首を締めているケースも多いと感じたこともあり、友人の指摘は十理あると思いました。
ただ、私には分からなくて当然の感覚ではありました。

私は中学校を中退しています。ついでに高校も。
義務教育である中学校を中退と称するのは、卒業証書を本当にもらっていないからです。

高校に通えなくなったのは病気が原因でしたが、中学校に行けなくなったのはイジメと学校生活への不適応が原因でした。
イジメが主因ではありますが、それがなくても通うのは苦痛だったと思います。

日本の義務教育は良くも悪くも、
「皆がやることは自分もやらなければならない」と思わせる手法が常に用いられてきたと思います。

先生の言うことを聞かなければならない。
時間割に沿って行動しなければならない。
学校行事をちゃんとやらなければならない。
勉強しなければならない。
運動しなければならない。
部活をやらなければならない。
進学しなければならない。

一方で、外形的にそれらに従っていさえすれば、理解や習熟が伴っていなくても一切省みられることはない。

結果は求められず、指定のメニューをこなすことだけは求められるから、学校教育は特に改善されないのだなと思いました。
仕事は外形もある程度求められるにせよ、結果が出なければ大抵改善が図られるか、
改善されないままなら倒産したり組織が崩壊したりしてパージされるし、
スポーツも気合と根性で勝てなくなれば、結果を出すために最新のやり方が取り入れられます。
学校は「言うことを聞かせる」ことが唯一にして最大の目的なので、結果を出す、
つまり子どもが大人になった後の人生をより良くするための改善など考える必要がないんですね。

学校という枠組みから離れたとき、「もう先生の決める正解に囚われなくていいんだ」と私は最初に思いました。
会社という枠組みから離れて起業したとき、「もう上司に評価されなくていいんだ」と感じたと友人が言っていたのですが、
今思えば全く同じ感覚でした。

義務教育から離れてしまえば、私の手の中にある24時間は全て私のものになりました。
私の頭の中にあったやりたいことは全てやることができました。
私の心の中にあったやりたくないことは全てやる必要がなくなりました。
それは自由度ばかりが高いマイナーなゲームと同じようなもので。
そういうゲームは無駄に難しくて初見殺しで、半分以上がクソゲーで攻略本もないので、
私は自分のためになると思ったことしかせず、
王道で最短距離の攻略ルートを探さず、
軽率に無責任な他人の言うことを聞かずに、
この人生ゲームをプレイしていこうと思いました。


不登校になる前の私は学校に反抗的ではなく、勉強も苦手な方ではなかったので、
それなりに色々な人に学校に行けと言われ続けてきました。

イジメの一環で階段から突き落とされて足を怪我した後に、私はしばらく保健室登校をしていました。
そこには教室に登校できない子が私以外にも数人いました。
保健室とはいえ、体調不良者が来る保健の先生がいる部屋とは衝立で仕切られており、
勉強や課題ができるスペースが作られていました。
ここには勉強を見たり課題を出したりしながら教室への復帰を促す役割の若手教師が定期的に来ており、
そいつらはよく、教室にも来れないと、嫌なことにも耐えられないと今後の人生で困るよと私たちに言っていました。
あまりにもウザすぎて足が治ると同時にグレて完全に登校しなくなったら、誰も私には何も言わなくなりました。
まあその報復で卒業証書がもらえなくなるんですが。
学校に行けと言ってた先公は私を心配してたんでもなければ、学外でも何かやるほど熱血だった訳ですらもない。
ただイジメを認めたくないとか、幼い子供を従わせたいとか、くだらねえ無責任から言葉を発していただけでした。

私みたいな気が強くて口達者なガキは、ブチ切れられるからよかったんです。
ただ、同じ保健室にいた子の中には、
周りの友達のことを信じて登校するように言われて、結局イジメは何も改善しておらずさらに深い傷を負ったり、
先生の言うことは聞かなければと、親ともども強迫観念を抱かされて、
メンタルをブチ壊しながら登校して精神科に入院したりした子が複数いました。
③他人のために行動するのは正義であり、正解だと認識している
④権威ある人の言うことを聞かないことが不得手で、ゆえに搾取されやすい

の呪いが解けなかったんだろうなと、今となっては思います。

上記はコロナ禍での「自粛」にも当てはまると思い、この記事を書いています。

自粛の定義は、
「自分から進んで、行いや態度を慎むこと」です。(※goo辞書より)

自粛は自分のためにやることのはず。
しかしコロナ禍では、「自粛すべき」「自粛を要請する」「自粛しないのは反社会的」など、
まるで自分ではない他人のために果たさなければならない義務かのように、
他人に詰め寄ったり、命じたりする人が多くいます。
首相や首長ですら、国民や市民の行動を規制する権限を正式に持たない日本で、
何の権力もない民間人がどういう建前で他人に命令ができるのかも、
何の権力もない民間人になぜ盲目的に従ってしまう人が数多くいるのかも、
私には理解できませんでした。
でも今思えば、まさにこれらは義務教育の強力な呪いの賜物で、
「他人のためにあれ」「権威には従うべき」という共通認識を持つ人が非常に多いがゆえなのだと思いました。

正解の分からない世の中だからこそ、正解があっても捨てた経験を持つ私はだからこそ、
「他人のためになんて生きるな」

とこのnoteを読んでくれている全ての方に伝えたいと思います。

自分の人生は自分だけのものです。
フェミニストは女の体は女のものと言いますが、それは全ての人に言えることです。
本来、人生とは体も心も誰にも縛られないものです。
自分のために学校に行きたいのならそうしたらいいし、自粛をしたいならしたらいい。
でも、学校に行くことが自分のためにならないと考えるならば辞めるという選択肢は常にあるし、
自粛することが自分のためにならないと思う人にも、自粛しないという選択肢が常にあります。

「他人のためにやらなければならないことは、法律上の義務以外はない」
のです。

自分の人生は自分だけのために生きましょう。
お姉さんとの約束です。

以上。

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