「自分ではない誰かのため」という言葉の嘘と欺瞞

自分の行動なのに自分ではない誰かのためにやったと言う人、
自分の人生なのに自分ではない誰かのために生きていると言う人をよく見かける昨今。

それって嘘ですよね。
という話を今日はします。

自分の行動や生き方を「自分ではない誰かのため」だと言う人は、
①本当は自分のためだけどそう言いたくない
②自分の行動や生き方の責任から逃れたい

のどちらかでしかないと私は考えています。

人は必ず「自分の」意思で好き嫌い、行動を選び生きます。
意思能力が失われている人ですらそうです。
好き嫌いも行動も彼らなりに実現しようとしますよね。

なのにどうして、意思能力のある人が自分の好き嫌い、行動を思い通りにいかないかのように言うの?
と何度か友人や知人に聞いたことがあります。
その答えの多くは、意思能力という名の理性があるからこそ周りのことを考えてしまい、
「自分ではない誰かのため」行動をせざるをえない時があるというものでした。

まあ、分かりますよ。でもそれって。

①本当は自分のためだけどそう言いたくない
だけですよね。

大人が色々と理性的に行動しなければならないのは間違いありませんし、
当然不本意なことも多いでしょう。
しかしそれは、その方が得をする/損をしないという考えから、「自分のため」選択したと認識すべきです。

結構前に呟いたんですけど、会社の飲み会が嫌だから禁止しろと言う人に、
余程のブラック企業でなければそれは自身の選択だから、
自分で選んだなら割り切って行くことを受け入れ、それでも嫌なら自分が行かない選択をまずすべきと私は言いました。
喧嘩せずとも普通に断る方法はいくらでもありますし。
飲み会を開催するのは自由で、行かないのもまた自由。
飲み会に参加しないと大きな不利益を被るようなブラック企業でもなければ、
飲み会に内心行きたくなくても行く人は、「飲み会に行った方が得をする/損をしない」から行ってるんですよね。
別に愚痴を言うなとは思わないけど、
「自分でやっていることを他人にやらされていると誤認すること」は自分を更に憂鬱にするし、
誘ったから来たくせに後であれは嫌だったなんて言われても周りも困るだけなので。

平社員が飲み会に行くのは上司や周りの空気のためじゃなく自分のためでしょ、なんてのは可愛い話だけれど、
「自分ではない誰かのため」という言葉は、他人にそう言うことで利益を効率的に得られる支配者にこそ都合の良い言葉です。
以下、例を挙げます。

レッスン1。リピートアフタミー。
「あなた自身ではない誰かのために」という言葉は、 
「誰かのためという名目で私のために働け」という支配者の汚い内心隠しに使われます。


例えば、教育虐待する親。 彼ら彼女らの多くは、「『親である私』に楽をさせるために勉強して稼ぎを上納しろ/私を満足させろ」とストレートには言いません。
「勉強は『あなたのために』なるからやるべき。立派な人間になるのは『社会のため』。
『親のため』に恩返しをするのは立派な人間なら『社会のため』にも当然のこと」
というロジックが組まれています。
「私があなたに理不尽を強いるのは私のためではなく、あなたや社会のため」と言うことで、『親である私』の醜い欲望を隠すことができます。
その理不尽に子が気づき、結局『親であるお前のため』じゃねえか、と爆発しなければ問題にもなりません。

例えば、ブラック企業のパワハラ。 
これも今時は、いかにもな俺様社長が「上司である俺のために働け」とストレートに言うケースばかりではありません。
ワタミの社長は大抵優しげに語りかけるように喋りますし、メッセージは常に『あなたのため、社会のため』です。
「私があなたに過労死ラインの労働を命じるのは私のためではなく、あなたや社会や同僚のため」という。 
「私があなたにボランティアを強制したり休日に感想文を書かせたりするするのは、社会のため、あなたのため」のつもり。
しかも多分、社長本人もマジでそのつもりでいるから怖い。
実際に得をしているのは社長本人のみなのにです。

上記は無自覚なケース。

②自分の行動や生き方の責任から逃れたい
ある程度自覚して、
「会社等の組織のためにやった」
「相手に時間を使わされた」
というタイプもいる。

レッスン2。リピートアフタミー。
「自分ではない誰かのために」という言葉は、 「誰かのためという名目で自分の得になるように働いた」行為者の損得勘定隠しのために使われます。

例えば、2018年の日大アメフト部の学生の悪質タックルの件。

彼は20歳の成人であり、自分で3回も悪質タックルをしながら、それはコーチと監督の指示だったと語りました。
実際それはあったんでしょうし、彼は指示を受けてやってしまった自分の犯した誤ちと弱さについても認めていました。
しかし、彼自身が試合に出たいがために暴力的な行為をした主体であることが正確に認識されたとは言い難かったです。
その後、彼は競技復帰もしています。
彼の中で彼はさらに横暴なコーチと監督の被害者で、行為主体としての反省はないんですよね。

例えば、大企業や国家規模の不正や残虐な行為が誰にも止められることなく行われるのも似た原理でしょう。
『組織のため』という大義名分が設定されることで自分の行動が自分の責任でなくなるように思われ、
良心に基づいた冷静なジャッジが行われなくなります。
アイヒマンのように。
スルガ銀行の不正融資のように。
かんぽ生命の不正保険販売のように。

「自分ではない誰かのため」なんてそうはありません。
「自分が好む誰かのための行動が自分のためになる」と認識できないと、人は動きません。
多額の寄付をするとか、多量の労力を費やすとかもそう。
勿論悪いことなんかじゃありません。
そこまでしようと思える対象があることは素晴らしいことですし、人生の豊かさです。
しかし、「所詮自分のためにやっているのだ」という目線を失うと、途端に傲慢になるから気をつけるべきだと思います。
「何でここまでしてやってるのに応えてくれないんだ」という愛の重いヤンデレストーカーみたいな心理と紙一重です。

自分の人生は、自分で起こした会社に似ているとよく思います。

自分は自社の社長として100%の議決権を握っています。
親からの教育や遺伝等の出資金は多かったり少なかったり、引き継いだ借金があったりもします。
思い通りになんかなりません。
不景気は唐突に到来するし、景気が良くても仕事が減ることだってあります。
それでも自分の責任で行動を選んでいくんです。

自分に利益をもたらす人間だから従業員として雇うし、従業員に給料を支払うことが自分の利益だから、
「従業員のため」ではなく、「自分自身の得のため」に従業員に働いてもらうんです。
「従業員自身のために働かせてやってる」んじゃないですよね。

そして自分がともに生きていきたいと思えば、配偶者は同じ家庭を営む人間として、
ある程度自分の人生の議決権を渡す相手になり得ます。
子どもができればそれも無視はできない。なぜなら自分で選んで持つのだから。
それも自分が選んで議決権を渡すの。
「配偶者のため」「子どものため」ではなく、「自分自身の幸せのため」に。

「他人のために」なんて嘘だと、私は声を大にして言いたい。

雑な「他人のために生きる」アプリをインストールしているがために、
バグったり処理落ちしたり脳を侵すウイルスに感染したりしている人が日本には特に多いと感じる。
純粋な「他人のため」という概念は原則存在しない。
それを知らずに「他人のために生きる」つもりになるのはとても危ういから、やめておいた方がいいよ。

以上。

この記事が参加している募集

最近の学び

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?