「手をつないでくれますか」

いったいどのタイミングで、この人とはないな、と思ったのだろう。
駅前のタリーズの洗面所で手を洗いながら、まりかは考えていた。


手帳を見返すと、11人目の殿方だった。
おいしいものが好きな黒クマさん。
プロフィール写真は色白ぽっちゃり、童顔。
プログラマーから、思い立って介護福祉士になる学校に通っている、とプロフィールにあった。
最終学歴は、専門学校。
学歴にこだわるわけではないが、殿方に自分より高学歴だからととやかく言われるのはうれしくない。
ちょっと引っかかったけれども、とりあえずやりとりを始めて2週間、県庁近くのイタリアンに誘われた。

メッセージで話したのは、おたがいの海外旅行の話や、今日おいしかったものなど、当たり障りのないこと。
それなりに退屈せずに、3週間ほどすぎただろうか。
印象もよかったし、手応えがなかったわけでもなかった。

わかりやすいようにデニムのオーバーオールを着てゆきます、というメッセージのとおり、待ち合わせ場所近くに丸っこい男性が、緊張した表情で立っていた。
黒クマさんは、ふたつ下の48歳。
おでこから頭頂部にかけての頭髪はかなり薄め、顎髭はほぼ白くて、まあ年相応といったところだ。
行きつけというお店は予約を入れてくれていて、顔なじみらしいオーナーに案内され、屋外の蒸し暑い空気からすんなりと解放された。
ま、ここまでは合格。

日替わりの冷製パスタを注文して、そろりそろりと黒クマさんは自分の話を始めた。
ことばを口にするたびに、私の表情を読み取ろうとする。
優しくて相手を思いやる、裏返せば他人の反応に臆病な人なのだろう。

仕事の話になって、私がとある相談機関に勤めていることを話すと、黒クマさんはあからさまに怪訝な顔をした。

「ウチの近くにもそのセンターありますけど、いつ行っても職員の人もまばらだし、利用者さんもあまりいないんですけど。
必要とされていないというか、利用する人は少ないのでしょうか?」

とんでもない!
センターに人がいないのは、職員がほぼ総出で訪問やら、同行支援やらに出払っているためだ。
私の職場も、毎年のように増員がかかるが、一向にラクになる気配はない。

そもそも、福祉的な支援が必要な人には、窓口まで出向けない人も多いことは、学校では教わらないのだろうか。
窓口で待っているだけでは、困っている人に支援が届かないことは教わらないのだろうか。

知らなければそれまでの話とはいえ、あまりいい気持ちにはならなかった。
そんなまりかの憂うつに気づかぬまま、黒クマさんは自分の話を続けた。

「私たちの歳で大卒なんて、まりかさんはすごいな、優秀なんですね。
私の周りでは、女性で大学に行った人なんて、1割くらいじゃないかな」

いきなり学歴の話が出てきて、少し面倒だな、と思った。
学歴、私が気にしなくても、殿方は気になるのだろうか。

「私は、身長も収入も学歴も低いし、この歳まで結婚はもちろん、20年近く女の人とおつき合いしないで来てしまいました。
母は一緒に暮らしていますが、やっぱり女性にしかない感性や価値観を感じたいと思って、婚活しています」

婚活しているのだから、女性に興味がないと言われても困るわね。

「おたがいの生活を大切にしながら、ひとりでおいしいものを食べてぼーっとするのもいいけど、隣に女性がいてぼーっとしているのもいいかな、って」

おたがいの生活を大切にしながら、一緒の時間も大切にしたい。
理想だよね。
でも、私たちが生きているのは現実よ。
一緒の時間はおたがいの時間を削らないとできないし、おたがいの時間が長すぎると一緒の時間は取れなくなってしまう。
このパラドクスに気づいている?
結婚歴のない人が抱きがちな絵そらごとを見た気がして、少し心が離れた。

「まりかさんは、どうして婚活しているんですか?」
「どうしてと言われても。私ね、2度も離婚しているんです」
「あっ……そうなんですね! やっぱり魅力的だからですね!」

新しい反応ね。

「両親と伯父夫婦の世話をしていて、いま76歳の母が彼女の母親と同じ94歳まで生きたら、私は70歳近くになっちゃう。
仕事と身内の介護だけで気づいたら70歳になるのはうれしくないし、忙しいときだからこそ楽しい時間をつくりたい、と思っています」

嘘偽りない気持ちだ。
時間は重ねたい人と一緒につくるもの。
でも、私はこの黒クマさんとの時間をつくりたいのだろうか。
食後のアイスクリームを口に運びながら、考えた。

「私が誘ったので、ここは私が持ちます」
「ありがとうございます。ではおことばに甘えて。ごちそうさまでした」

チェーンの焼肉屋さんでバイトしている学生さんにおごってもらうのも、と思ったけれども、レジの前で伝票の奪い合いをするのも美しくないので、あっさり引き下がることにした。
近くで屋台村が開催されているからのぞいてみよう、という彼と一緒に、繁華街にある公園へ向かって歩き始めた。

「あの、まりかさん、手をつないでくれますか」
「は、はあ?」

と、私が返事をし終わらないうちに、彼は自分の左手をまりかの右手にからめてきた。
何と、顔を合わせて1時間で、恋人つなぎである。

「デート気分を味わいたいんです。
20年ぶりくらいかな、いや、もう数えるのもやめます」

黒クマさんは、うつむき気味に言った。
人質を取られてしまっては仕方があるまい。
エッチのお試しはお断りだけど、手をつなぐだけならとりあえず、試してみるか。

ところがである。
手を取られてみても、一向にどきどきしないのだ。
お相手が慣れなくてぎこちないだけではない。
明らかに、この手はまりかの手が居るべきところではないと、心が小さく叫んでいる。
私の手、どうやって回収しよう。

「あれ、おかしいな。もう閉まっちゃったのかな。
ちょっと待ってくださいね」

屋台のテーブルに椅子を乗せた状態の屋台を見て、黒クマさんは明らかに動揺していた。
つないだ手を離して、掲示をチェックしに行った隙に、まりかは自分の右手を取り戻した。
よかった!
呼吸困難だった手のひらが、息を吹き返したようだ。

「すみません、昼が終わって、次は夕方みたいです」

周到に計画したデートプランが崩れてしまったようだ。気の毒に。

「後ろの予定があるので、このへんで失礼しますね」
「車で来ているので、送ります!」

ちょっとちょっと、初対面でいきなり自分のクルマに乗せようっていうの?

「いえ、大丈夫です。駅もすぐそこなので。
車でいらしたんですか?」
「はい、まりかさんの家までお送りしようと思ったので」

黒クマさんのデートプラン、終了。
なりゆきでLINEの交換はしたけれども、私から連絡をすることはないだろう。


タリーズでアイスコーヒーを飲みながら、やっと取り戻して洗った手にロクシタンのクリームを塗って、まりかはため息をついた。
メッセージでは、悪くなかったんだけどな。
さくらまりか50歳、まだまだ修行が足りないようだ。


*2023年7月15日の活動状況
・もらった足あと:7人
・もらったいいね:2人
・やりとりした人:1人
これで、手持ちの殿方はいなくなった。
マッチングアプリに登録してそろそろ5か月、引き際を考える時期に来たのかも。

サポートしてくださった軍資金は、マッチングアプリ仲間の取材費、恋活のための遠征費、および恋活の武装費に使わせていただきます。 50歳、バツ2のまりかの恋、応援どうぞよろしくお願いいたします。