惚(ほう)けても忘れないもの

「アケミさん、ご主人しばらく入院するんですよ。
お見送りしましょうね」
「トオルさん、トオルさん、がんばってね」

老人ホームの窓越しに無邪気に笑うのは、母の兄であるトオル伯父の連れ合い、アケミ伯母だ。
今日は伯父が体調を崩したため、ホームから療養型の病院に転院する日。
まだまだコロナ禍の警戒が続く医療業界、転院先は原則面会禁止だから、これが夫婦の最後の逢瀬になるかもしれない。


子どものいないトオル伯父夫婦は、本当に仲がよい。
70代半ばで認知症を発症したアケミ伯母を、3つ上の伯父は7年間にわたり、生活のすべてを世話してきた。
自宅での介護がいよいよ限界となって、伯母が老人ホームに入所して2年がすぎた昨年の夏、伯父も同じ施設に入ることができて、1年経ったところでの別れである。
施設では、夫婦が最期まで一緒に暮らせるよう検討を重ねたというが、夜間も痰の吸引が必要な伯父の対応はどうしても難しい、ということでの転院だった。

忙しい仕事の合間を縫って、職員さんが何人も出てきて、伯父夫婦を囲んでくれている。
家族との調整を担う相談員のイノウエさんは、ふだんは冷静な瞳に涙を浮かべながら、写真を何十枚も撮ってくれた。

「僕たちもどうにかご一緒にすごせないか、必死で考えたのですが、やはり無理でした。
すみません。どうか許してください」

と、言いながら。

長年介護した伯母が入所したあと、伯父はもぬけの殻になって、どんどん元気がなくなった。
食事がほとんど取れずに低栄養状態で何度も救急搬送され、認知機能が落ちていった。
いまは、認知症も進み、身体機能もすっかり衰えて、介護認定は最も重度の要介護5。
まりかが見舞いに行くといつも、

「やあやあ、アケミくん、よく来てくれたね」

と、ゼエゼエ言いながら微笑んでくれる。
会う人すべてが妻に見えるほど、愛おしい人に出会えた伯父が、心底うらやましい、と思った。

「トオルさーん、元気になって帰ってきてねー。
いってらっしゃい!」

アケミ伯母の陽気な声が、老人ホームのエントランスに響く。
祖母と同居してくれていた伯母は、ケーキを半分しか食べないほど、美容には気を使っていた人で、自宅のクロゼットには、7号の洒落た服がたくさん残されている。
美しい人だ。
伯父がベタ惚れなのもよくわかる。

それが、どうだろう。
認知症で食事をしたことすら忘れてしまうようになってから、みるみる太り、いまでは4Lの服を着て、脂肪肝の薬を服用する。
昔のプロポーションは失われてしまったが、伯母は天使のように笑う。
彼女が笑うと、周りの人すべてが幸せになる。
愛する夫への愛情を、だれにはばかることもなく全身で表現する。
何と幸せな人だろう。

100平米を超える伯父のタワーマンションの片付けをしながら、まりかは思った。
高級なステレオもカメラも、洋服も着物も茶道具も、いつかは手放す日はやってくる。
でも、自分の一部となったパートナーへの愛は、死が訪れても離れることはないのだろう。
伯父夫婦は子宝には恵まれなかったが、唯一無二の伴侶を得ることができた。
惚けても決して忘れることがない、愛おしい人を。

さくらまりか、絶賛恋活中の51歳。
逆立ちしてもこの境地に至ることはできないと、ため息をつくのである。

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