「一度だけ、お願いします。愛させてください」

「まりえさん? まりえさんですよね?
遅くなりました。ナカタニです」

通りすぎようとした男性が振り返り、甲高い声で小さく叫んだ。
福耳の「ナカタニさーん」だ。
どうしよう、声フェチのさくらまりかがもっとも苦手とする音域だ。

私のマッチングアプリでのニックネームは「まりか」であり、「まりえ」ではない。
可憐なジャスミンの和名、「茉莉花」である。
顔を見る前から名前を間違えられるのは、初めてだ。
まりかは本名ではないからどちらでもいいのだけれども、それにしても気持ちのよいものではない。

目線を上げると、自称175cmよりも小柄な印象のオジさんが、水色のストライプのシャツに紺のチノパンという格好で立っていた。
髪もきちんと整えられ、根元に白髪が出たりせず、きちんと染められている。
プロフィール文によれば、どんな金融業かは知らないけれども、堅い仕事をしている人らしい。
やや厚めの唇の上には、大きな鼻がどんとアグラをかいている。
どうしよう、写真と違う。苦手な顔だ。

ここは、まりかの住むまちから東へ約10キロ、電車で15分ほどの駅。
地方ではあるが、大きなお寺があるせいか、外国人観光客が多い。
30度をはるかに超える梅雨明け前の日曜の昼下がり、私たちは参道へ向かって歩き出した。
初対面の女性と歩くというのに、ナカタニさんは7センチヒールの私に歩幅を合わせることなく、また私がさす日傘にはまったく気がつかないように、人混みをさっさと歩いてゆく。

3分ほどで目指していたお店についた。
老舗のカフェで、洋食屋さんということばがぴったりのお店だ。
赤いドアの取っ手を引くナカタニさんの右手には、ペーパータオルを折りたたんだようなものが見える。
もしかして、潔癖さん⁈
ドアを開けても先にとおしてくれることはなく、ついてゆく私がドアを閉めようとすると、
「あっ、いいですよ、触らなくて!」
と、お店の人やほかのお客さんに聞こえそうな甲高い声で小さく叫んだ。
どうしよう、私、この人と一緒に食事ができるだろうか。
空いている席にどうぞと言われて、彼は窓際の丸テーブルに向かい、向かい合わせではなく45度になる席を私に勧めた。
知ってか知らずか、初対面でもいちばん話しやすい角度だ。

ひとまず、生ビールとフライドポテト、サラダ、ソーセージなどを頼んで、乾杯。
彼がソーセージをくちゃくちゃと噛む音から逃れたくて、私はよく冷えたビールをきゅっと流し込んだ。
どうしよう、生理的に苦手なタイプだ。
仕方ない、途中で帰るわけにもいかないし、早く出ているお料理を胃袋に片づけてしまおう。

彼は、カード会社のコールセンターで督促の仕事をしているという以上のことは話さない。
あまり仕事に誇りはない人らしい。
私に対しても、仕事の休みは聞くけれども、仕事の中身は聞かない。
この人、人間としてのさくらまりかには興味がないんだわ。
ま、どうでもいいか。早くここから逃げ出したい。
まだ私のビールがジョッキ半分以上残っているのに、ナカタニさんはあっという間に追加で瓶ビールを注文した。
彼の血中アルコール濃度は、彼を饒舌にする。
聞きもしないのに、離婚は元妻の不貞が原因だとペラペラ教えてくれた。

「離婚したのは5年前ですが、5月に3年ほどつき合って別れた女性がいたんですよ」

藪から棒に、ナカタニさんは切り出した。

「つき合い始めたころは、月に1回くらい会っていたんですけど、コロナもあって、ほら、外に出るのは怖かったでしょ、1年半くらい会えなかったんですよ」

1年半?
ナカタニさん、それはきっと、おつき合いしていた、って言わないと思うわよ。

「で、久しぶりに今年の2月に会えたんですけど、不思議なんですよ。
5月に彼女から連絡が来て、
『実は、あなたと同じ時期に別の男性ともおつき合いしていて、その方と結婚することになったので、もう会えない』
って、言われたんですよ」

ナカタニさん、それはきっと、おつき合いしていた、って言わないと思うわよ。
不思議でも何でもなくて、彼女にとってたまにメシをおごってもらうだけの関係だから。
だいたい、つき合っていたら、月に1度しか会わないって、私は信じられないな。
彼女はいくつくらいの人だったのだろうか、たずね忘れてしまったことが悔やまれる。
バブル時代に言う、メッシーといったところだろうと想像した。

「ところで、まりえさんはどういう関係を望んでいるんですか」

まりかなんですけど、と思ったけれども、面倒くさくてもう言おうとは思わない。

「どういう、って?」
「いやつまり、前の彼女とはそういう関係だったから。男女の仲」

あ、そういうことね。自分とやるかやらないか、あなたの関心はそこだけなのね。
そりゃ、つき合っていれば、いたすこと自然なこと。
でも、私はあなたといたすつもりはないわ。

「いや、女性はどうしてもそういうのがキライという人もいるから、お聞きしているんです。
まりえさん、どうですか、私?」

椅子から身を乗り出して、私から50センチくらいのところまで顔を近づけた。
どうしよう、卒倒しそうだ。

「私、まりえさんのことが、すっかり気に入ったんです。
今日中に返事してください。
あなたを見てみたいんです」

一気にそう言って、ナカタニさんは私を頭のてっぺんから爪先まで何度も見て、紺のゆったりしたリネンのワンピースに包まれていた胸元と私の顔を、何度も何度も視線を往復させた。
まるでタケノコの皮を剥くように、彼の頭の中で、私の衣類は一枚ずつ脱がされているようだ。

この男、私の裸を見たいと言っている。
ソノときの顔が見たいと言っている。

冗談じゃない。
さくらまりか、ココロ開かずして、アシ開かず、だ。

「一度だけ、お願いです」
「いえ、それはゆっくり考えさせてください」

カラダに入るものは、食べ物以外も厳選したい。
いえ、私はあなたを入れたくないのよ、ナカタニさん。
あなたに乳房をまさぐられるなんて、太陽系を飛び出したって無理だから。

沈黙の中、うつむいたまま、ここから逃げ出す方法を必死で考えていると、ナカタニさんが口を開いた。

「奥ゆかしいんだな、ますます気に入りましたよ」

いや、別に、いたすことがキライなわけでも、カマトトぶっているわけでもないから。
それどころか、まりかは本当に心を開いた殿方には、毎日、何度でも抱かれたい。
ココロもカラダもアタマも満たし合いたい。
でも、私はあなたとはいたしたくない。それだけよ。

「そろそろいきましょうか。
まりえさん、頼みますよ、今日中にお返事くださいね」

彼は財布を取り出した私を静止して、お会計に立った。
ナカタニさんはまた、ポケットから小さく折ったペーパータオルを取り出して、お店のドアを開けた。
彼は私鉄に、私はJRの駅に向かった。
ああ、よかった。
電車の狭い座席に隣り合って座るなんて、絶対に無理。
ここまで苦手な人って、久しぶりだぞ。

やれやれ、やっと解放された。
いまごろになって、中ジョッキ2杯分の酔いが、一気に回ってきた。


ホームに降りたとたん、アプリの着信音がビリビリ響いた。

「今日はありがとうございました。
私は貴方が気に入りました」

おごってもらってしまったし、お礼とご縁がありませんでしたメッセージを送ろうかと思った瞬間、もう一度アプリがビリビリ鳴った。

「本音を言います。まりえさんは、だいぶ長い間、女性ではなかった模様。
私に愛させてください」

冗談じゃない。
日照り続きだから、自分が満たしてやるよ、って⁈
失礼にもほどがある。

繰り返すが、カラダに入るものは、食べ物以外も厳選したい。
彼の赤いチェックのパンツを脱がせてしゃぶるなんて、想像するだにおぞましい。
即、ブロックだ。

と思ったのだが、どうせブロックするなら、ひとつ聞いてやろう。

「私を女性として満足させる自信がおありですか」
「はい。愛させてください」

けっこうな自信だわね。
即、ブロックした。

ナカタニさんには、大学3年の娘がいる。
彼女には、自分の父親が会って30分足らずの女性に、セックスさせてくれと頭を下げて懇願する姿を、一生知らずにすごしてほしい、と、心の底から願っている。


*2023年6月30日〜7月3日の活動状況
・もらった足あと:15人
・もらったいいね:4人
・やりとりした人:2人
次は、仕事を辞めて一念発起、介護福祉士の学校に通う48歳の殿方と、再来週末、お会いすることになった。
次も、会うなりさせてくれと言われたら、どうしよう。

サポートしてくださった軍資金は、マッチングアプリ仲間の取材費、恋活のための遠征費、および恋活の武装費に使わせていただきます。 50歳、バツ2のまりかの恋、応援どうぞよろしくお願いいたします。