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たばこの煙のようなコミュニケーション

最近、「コミュニケーション」という言葉をよく聞く。
巷には、チームを円滑に進めるためにはコミュニケーション!とか
コミュニケーション能力を高めるためにはどうすればいいのか?みたいな本があふれている。

私はこんな文言を見るたびに、「コミュニケーション=話すこと」みたいな直線的で安易な考えだなと息苦しくなることがある。
確かに、話すことは人間にとって大切なコミュニケーション能力である。人類は話すことで社会的なつながりを持ち、強くなってきた。


だけど、だけど。
コミュニケーションっていろんな形があると思っている。
書くこと、描くこと、うたうこと、贈り物をすること…。
コミュニケーションという言葉はいつも誰かに対して行動するときには
必ずついてくるものだと思っている。
だから、話し方だけがうまくなっても一方的なプレゼンであるだけで
相互的なコミュニケーションとはいわない。


「コミュニケーション」という言葉を聞くと、
私は話すこと・伝えることの前に「飲み込むこと」を思い浮かべる。
そして、必ずといっていいほど、たばこを吸っている人のことを思いうかべる。


強調しておきたいのだが、私はタバコを美化しているわけではない。
健康に悪いものだし、ちゃんと考えて使わないといけないと思っている。
だから、私はたばこは吸わない。

だけど私の周りにはたばこを吸っている人もいて。
その姿がたまに「魅力的だな」なんて思うときもある。

たばこを吸う人よく言っていたのが、
「たばこはただ吸って、吐いているのではないんだよ。
いったん吸って、体の中に入れてから余分なものを吐き出すんだよ。」といっていた。
聞いたときは、「だから吸った時と、吐いたときにタイムラグがあるんだな」なんて小並感なことも思っていた。


今思うと、
これ「コミュニケーション」と少し似ているなと感じる。


私たちはコミュニケーションというものをするとき、なにかしらの「異物」に出会う。
例えば、知らない人、グロテスクな絵、今まで聞いたことがない音楽。
私たちそれぞれにとって初めて出会うものはみんな「異物」だと思う。
そんな「異物」を私たちはいろんなコミュニケーションツールをつかって体に取り込もうとする。

これはたばこを吸うように、
「たばこの煙」というなんとも危なっかしい異物を自分の体の中に溶け込ませる。そして、余分なもの自分には必要ないものは吐き出す。
そのこととほとんど一緒なんだろうなと感じてる。


だから、相手にとって取り込みやすいように伝えるツールももちろん大事なんだけれど、
それ以上に自分自身が「異物」を受け取る少しの勇気が今の私たちには必要な気がしている。

たばこの煙のように、自分に必要ないものは吐き出せばいい。
だけどいったん自分の内側に入れてみる。

その姿勢があってこその、話す・伝える力だと思う。

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