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The Breakfast Club (1985・米)

春休みの終わり、いつか見ようと思っていた映画『ブレックファストクラブ』がネットフリックスに上がっていた。その日はあまりいい気分じゃなくて、無意味に、これから始まる新学期のことを考えて悶々としていた。

むしゃくしゃしながら煙草を二本吸った後、ベッドに倒れこんで見たその映画に、心が洗われた気がした。ジョンたちと一緒に泣きながら、人生で遭遇する理不尽さとどうにもならない無力さ、それでも友と一緒だったら笑い飛ばせる、そんな描写に胸が震えた。

この映画を見て考えさせられたことをまとめておく。
以下ネタバレ注意。

映画に莫大な予算をかける必要はない

映画館で流れるコマーシャルでよく聞く煽り文句に、「製作費○○億円!超話題!」「人気俳優○○が多数出演!」なんていうものがある。その根底には、製作費がこれだけかかったのだから、いい映画でなければいけないはずだ、とか、出演費として莫大なお金が動く俳優を起用しているのだから、面白くないはずがない、といった費用=価値の方程式が成り立っている。
映画ファンや批評家であれば、そんなことはあり得ないとわかっているものの、そういったものはマーケティングとして話題にも上りやすくて、いかにも人々の支持を集める「いい映画」であるように見える。

エンターテインメントとして優れてはいるのだろうが、実際それが映画として成り立つために必要な要素であるのかと言われれば、誰しもが否というだろう。
映画に必要なのは、映像だけ。セリフや音楽などの音があればなおいい。そんなものである。

『ブレックファストクラブ』はまさにそれが体現されていた。舞台は主に学校の図書館。たまにそこを飛び出すが、映像はすべて学校の中で完結する。特殊な映像効果などは使わない。回想シーンもない。
役者の長台詞とロックミュージックが映像以外のこの映画のすべて。

どう考えても低予算の映画である。それでも、映画に必要なものはすべてそろっていて、人の心に響く。

複雑な話をする必要はない

この映画はいたってシンプルである。
彼らは全員アメリカに住み、白人としてのバックグラウンドを持っている年頃の高校生。
アメリカ社会の暗闇については話さないし、人種的不遇のテーマもない。
彼らはただ、一人の高校生として、親や自分の周りの環境、スクールカーストの中で葛藤し、もがいているだけだ。

高額な保険のせいで、左手の薬指だけくっつけなおしたとか、親の稼ぎが少ない黒人家庭でぐれた少女がソロとして合唱団を率いるとか、そんな複雑な話はしない。ゲイカップルがダウン症児を保護するなんて展開もない。

誰にもいる両親と家庭の話、友達の話、自分の置かれている環境で感じるプレッシャー、初体験の話。

彼らはとてもシンプルでそれでも難しい自分自身の問題を、新しくできた友人の前で語るだけ。学校でのキャラクター性の異なる5人が、自分の葛藤、自分の弱い部分をさらけ出して共有する。
彼らの葛藤は、単純で、中立的で、だれしもの心に響く。

ハリウッドではいま、多様性が叫ばれているけれど、それが生み出すものはあまりにも複雑で、共感を呼びにくい。
複雑なものが押し出されるほど、シンプルな悩みは疎外されていく。
白人だって、男だって、葛藤を抱えるものである。

まとめ

いい映画。


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