コンテンツ力

「情報の価値」というものを考える。

と書くとnoteに蔓延る有象無象の情報商材みたいな書き出しになってしまったが、もちろんそういうものではない。

「情報の価値」は見える化されている。例えばnoteでは「ダッシュボード」という機能でどんな記事がどれくらい読まれているのか確認することが出来る

Twitterでも「ツイートアクティビティ」という機能で同じようなものが見れる。

誰にどんな情報が「ウケている」のかをひと目でわかるというのは現代チックだなぁと思う。この数字が多ければ多いほど、必要もしくは面白い内容だったということだ。「コンテンツ力」とは「魅力」とも言える。

コンテンツ力でお金を稼ぐ人達もいる。ブログやYouTubeには広告が付けられる。より多くの人に何回も見てもらえればそれだけ収入も増やすことができるのだ。その人自身や題材のコンテンツ力が無くならない限りは。こういった人は特段珍しいものでもなくなってきている。小学生のなりたい職業ランキングでYouTuberが上位に入ってくる時代だ。

弊害もある。そもそも、コンテンツ力を持っている人間は少ない。義務教育のクラスを思い返すと(たまたま住んでいる所が近いだけで集められた同じ年齢の集団という意味で義務教育はいちばん多様性があると思う。)、注目を集めることが得意だった人間が果たして何人いただろうか?誰にも負けない深い知識を持った人間が何人いただろうか?それを現実・ネット社会に当て嵌めてなん人需要があるだろうか?結局プロスポーツ選手と同じひと握りの世界なのだ。

もうひとつ。上で「情報の価値」の見える化、と言ったが、見えない価値もまたあるのではないか?ということ。人々の関心が高いものだけ価値が生まれて、関心がないものに値段がつかなくなれば、素人目には分からないような芸術や技術は廃れるだけだ。よく「日本の研究費が少ない」「成果が出ないと研究費が貰えない」なんて話があるが、結局そういうことなんじゃないかと思う。政治は鏡なので我々の価値観が変わらないと何も変わらない。

みんなが見ているから、数字持っているから。そんなことに囚われるのは惨めだ。みんなが見ているものの価値を理解するのも大事だが、自分だけでも価値を認められる人間になりたい。「魅力」に惑わされず「魅力」を持って発信したい。矛盾だぁ〜。

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