見出し画像

世界平和の手引き書 第一巻『京都の心恵ちゃん』0⃣(SF怪奇小説版)

この小説は、恋愛を軸としながら日本に革新・躍進をおこしていく時代の寵児が活躍するSF怪奇小説の第一巻です。
 第一巻は心恵の失恋&鬱から立ち直り、驚きのモテ期を経験し温かく実り豊かな人脈の広がりまでの物語です。ちょっとほんと読みにくいですw

●人生を変えたい人
●いつも忙しいと感じる人(時間感覚が成功者の時間間隔に変わります。)
●鬱予防したい人(5人に一人がメンタル疾患になるといわれている時代です。)

●良い恋愛したい人に手にとっていただき一助となりましたら幸いです。

<プレリュード>

この小説は京都に住む複数人の日常のドラマです。登場人物のラーニャ・心恵が書いた小説という設定です。お楽しみくだされば幸いです。 初めて小説を書く心恵は、とにかく挨拶文から書いていることにしました。「読者様へのお手紙なんだから。」と、気合をいれすぎというもので、随分と長くなっておりますので、本文から目を通していただいてもよいのではないかと思います。(ただ今執筆中🖌)活字慣れしている方は、ぜひ目をとおしていただければと思います。

<ご挨拶>

 この度およそ10ヶ月の変化を小説形式にして公開することにしました、ラーニャ・心恵と申します。80年とも100年、それ以上とも言われる人生ではありますが、人生がまるで別天地に来たように変容に至る衝撃の体験をすることは一生のうちにさほど多くはないどころか、まるで平地を歩くが如く平穏平安のうちに一生を過ごす人もいるそうですし、一方で小説に起こせば、百の書にも千の詩にもなるような驚嘆稀有波乱の人生を歩む方もいると聞きます。読者様は今の今までいかような人生を歩まれておりますでしょうか。いつかお伺いで出来る日を楽しみにしております。

 さて、一水四見、水さえも人により様々な見方をするといいます。同じ出来事でありましても体験する人により描き出される景色が違うことは極々し自然な事なのでしょう。ある人にとってはさざ波も別の人にとっては足元にみ水飛沫がかかったと認知したところにあっと言う間、吸い込まれるほどの渦となることもあるのでしょう。未だ未知に満ちた世の中にこうして生きていましても人の数だけ物語があるということばかりは数少ない真実なのかもしれません。 
 さて、この物語はそんな億兆とある物語のうちからのほんの数編のご紹介。第一巻は2022年の夏の出来事によって大きく人生を変えていった人物の変容の綴りであり、30代をもうすぐ迎えるいち女性の内面を赤裸々なまでに映し出したものです。仮に読者様が登場人物の立場であったのならまったく異なる物語になっていたのかもしれません。第二巻以降は、京都の心恵を取り巻く人たちについて全国津々浦々を舞台として進んでいく予定でおります。

 作者であり第一巻の主要人物である心恵は、天つ水の季節、5月雨の晴れ間の出来事から10か月ほど経過したころに、小説を綴り始めました。

心恵の物語を楽しんでいただければと思います。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

<序章> 人を物書きへと強力に動かすもの★

 小説を書きたい、そう思ったことは生まれてから28年の月日の間、微塵もありませんでした。えぇ、微塵もなかったのです。しかし、とある出来事により生じた身体への電気的な衝撃が脳の配線を大きく変えたのでしょうか、それとも秘めていた内なる表現への欲求が目覚めたのでしょうか、わたしは小説たるものをかかずにはいられなくなったのです。
 あれはおよそ10か月(※3年前に変更予定)にもならない前、6月の末のことでした。京都では水無月という和菓子を頂く頃のことです。わたしは鋭い弓矢に心の臓を射られたのです。そう、『💘』このように。といいますと、これはロマンスの物語と思われるかもしれません。確かに恋についての物語ではありましょう。しかしはじまりの物語はせつなさの伴う恋の話。つまり恋を失う方の物語。
 初夏の頃と言えば街角で交差点のカフェで教室でオフィスで、それから今時ではマッチングアプリで、恋のキューピットたちがたいそう忙しくしながら愛らしい翼を羽ばたかせ、弓をキリリと張り放っている季節でしょう。恋の弓矢は、ドーパミン、エンドルフィン、オキシトシンなどなど恋に不随するホルモンを体内に発生させ射貫かれた人たちを甘美なる陶酔の世界へと誘うものです。えぇ、わたくしもその季節に鋭い弓矢に射貫かれたましたとも。ただ、それは喪失という痛みの電気エネルギーと空虚という大きな虚無感をもたらす弓矢であったのです。
 そうしますと、方々からいろいろな声が聞こえてくるように思うのです。
「大したことなかった、って思える日がくるよ。」
「そうやっていい女になるのです。」
「それは痛い、経験がありますよ。身が引き裂かれるようでしたよ。時間が解決してくれますよ。」
         
 千人いれば千人だけ真理というものがあるにせよ、『喪失があればその分得られるものがあるから、それは喪失ではない。』とは、多くの人が真理のひとつだと納得するでしょうし、物事を自在に観て添えなおすことのできる聖人賢人のような人ならば、「喪失だと思ったことは実は豊富に得るための引きだった。」「実は失われたものなどなにもなかった。」などと言い始めるかもしれません。 
 一年もまだ経っていない直面したばかりの頃のわたしには、そのような深い人間洞察が隠れているようなセンテンスが説得力をもつことは蟻の涙ほどもウィルスのため息ほどもなく、ただ喪失が生む苦痛が煮えたぎる五右衛門風呂でもがくばかりだったのです(いいすぎでしょうか?とにかく何かの罪業によって懲罰を自らに課していたような状態だったのです。自信がない罪でしょうか、遠距離恋愛の罪でしょうか、そもそも生まれてきた罪でしょうか、生まれる前の罪でしょうか・・・)。塔から落ちるりんごが迷いなく重力にひっぱられるように、わたしの心は底なしの暗い谷底に落ちていっていたのですから。下へ下へ暗闇へ暗黒へと引く力が何であるかを知るまで、わたしは落ち続けたのです。

 そもそも罪などどこにありましょう、たとえあったとしても慈愛をもって許すことが始まりではありませんか。五右衛門風呂から這い出て足をのばし、手をのばし燦々と耀く太陽(とほほえみあうことさえできるのです。)に挨拶することだってできるのです。そして聖人や賢人とまではいかないまでも幾ばくか近づき、以前よりずっと、豊で自然と心の深い領域から希望がわいてくる場所に身をおくことができているのです。
 そして、2023年2月に入り今までとはまるで違う世界へと歩みはじめているのです。
「若い頃の失恋は人を磨くのものよ。」
「辛い出来事が飛躍のばねになる。」とはよく聞かれるものです。わたくしが磨かれた否かは定かではありません。しかし飛躍とまではいかないまでも以前よりずっと朝が待ち遠しい生活が始まったのです。
 第一巻は、驚くべき新たな出会いの扉が開け始めるまでの経緯となります。
 物語の世界をお楽しみくだされば幸いです。
*********************
「本気で人を好きになれる人、だから痛いんだよ。だから魅力が増すんだよ。」
************************

<時間からの解放と観自在の世界>

■時間は存在しないのですか?

現代物理学者の賢い方々は、
『時間は存在しない。』
と、まるで禅僧のようなことを述べておられます。



 わたしたちは今現実を生きていると思っています。実際は、アインシュタイン博士が『時間は相対的』との言葉どおり、重力や高さにより時間ほんの僅かにずれがありますし、時間の流れ方も万人が違っても
わたしたち人類はこぞってほぼ同じ時間軸の中で生活しているのでしょう。えぇ、もしかしたらそれでさえも幻想なのかもしれませんが、地上の生物の中でも少なくともわたしたち人類は時間という観念が存在するようです。

 ときどき時間の流れが過去今未来と進むという理からはずれ、過去に舞い戻り人生を再び生きるというような物語がございます。わたくしの知る範囲では物語の中の出来事ではあります。それでも映画や小説、漫画ではよくよく見られる物語ですから、多くの人が過去に戻ってやりなおしたい、そんな願望が心をよぎることが少なからずあるのでしょう。えぇ、わたしもそのひとり。

私たち地上の生命体たる人類に組み込まれた、時間感覚をもたらす遺伝子が時間があるかのように認識するというのです。ないものがリアルに感じられるばかりではなく、時間のに前や後ろがあってはじめて、わたしたちは胎児となり生まれてくることもできます。


<あらゆることが幻想にすぎない。>

時間だけではなく、
『あらゆる地上の現象は幻想にすぎない。』
まぁ、まるで仏教の経典でも開くようなことを現代の物理学者が言うのです。

 では現実とはなんでしょうか、
「幻想です。」
この辛いというきもちはなにでしょうか、
「幻想です。」
生きることはなにでしょうか、
「幻想です。」
幻想です、幻覚です、つまり、幻です。

そのようなことがあっていいものでしょうか。
よいもわるいもそれは人の判断、
ただそのようであるだけなのでしょう。
幻でありながら今文字を打つ手は動き、タイピングの度に指圧を感じます。まだよき思い出としてしまいきれていない過去は、想起の度に胸をえぐります。

それでもこの世は、幻にすぎない。

物理学者の方々のみならず、古来からの哲人賢人のみならず、仏教の経典のみならず、声を揃えて「すべては幻です。」と。

では、この世を繋ぐものは何でしょうか。
地上で長い年月を経て形作られた遺伝子でしょうか、それとも少しありていにいえば、愛でしょうか。

■ そうは申しましても

 そうは申しましても楽しいことは楽しく、猫はかわいく、また時間の流れはこのように現実味を帯びています。太陽は東と人が呼ぶ方角から登り、古来のこの国の方々が西方浄土と呼んだ西に沈みゆき、闇夜になれば月が天空に照ります。これは何もわたくしだけに現実として見える現象ではなく、きっとあなた様も。
そして、たとえこの人生が幻であろうと夢であろうと、この生を謳歌したいと願うのです。苦を減らしそこから学び、喜びを得て共有しあうことで増幅増長したいと願うのです。きっとそれはあなた様も。


 そして、そう願い、またすべてが幻でありながらも、
人生を苦の中に生きることがございます。いくらあがいてももがいてもそれがためにより一層、苦の中に沈むこともしばしば起こるのです。つまり、願いに反してか則してか、地獄にいきときに渦中にのまれ窒息すんでとなり、ときに業火の中で油をまくこともあり、逃げ込んだつもりが氷点下よりも零下の中に身を凍らせることもあるのです。

この世が幻なのでしたら、
天国も地獄も幻のはずですのに。
 
思うようにならないのがこの地上であるとの諦念こそ要と結論づけてしまったのならば、もしかしたのならば、ふいと羽根がはえ引き上げられることもあるのでしょうし、諦念が無力感を育て這い上がることも身動きをとることもままならぬほど深い沼に沈むことだったあるのでしょう。

知よ、求めればやってきますか?
ならばこの場で求めます、自在に観る智慧を。
ここより出で目に移り肌に感じ、舌を潤す現象が、
幻と、見える場所はありますか?

そこへは如何なる道を通り抜けたのならばたどりつけますか?
どの扉を開けばゆけますか?扉はわたしに開いてくれますか?

求めます、心の眼が開けることを
この世が観自在と知る智慧を。
たとえ、人の数だけ扉があろうとも書物があろうとも
星の数ほど道筋があろうとも
わたしは智慧を求め、
扉へと向かいます。
 

心恵のエクスノートより



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?