小説【はずき】33の手紙『恋愛そのものはそもそも異常説』
6⃣恋愛依存症なるものの前に、恋愛そのものが異常説?
わたしは、どこがどう恋愛依存症?
そもそも恋愛依存症とは?
彼を大切に思っていることと、何が違うの?
依存症、と名まえがつくように、それは治癒の対象となって完治をめざすべき症状ということなんだろう。
異常があるから、正常になりましょう、って。
そもそも、恋愛は、すべて
人にとって異常事態じゃない?
人を好きになると地球きってのIQを誇る生命体であるはずの人類もチンパンジーと変わらない判断能力となるという。これは、積極的なメイテイィングに繋がり、種が保存されるには一役かったのだろうが、単なる異常事態とも言える。最近では性的にニュートラルな人たちの存在が、知られるようになった。インターネットの文明が人類に出現したように、今までいなかったタイプの人が文明によって出現したのだろうか?ちょっとそうは考えにくい。カミングアウトできるような基盤ができたということと、また他者に対しての自己の相違に、以前よりも精度高く気が付くようになったからかもしれない。「あれ?わたしには、恋愛感情なるものがどうやら非常に小さいぞ?」「そもそもないぞ?」と。
この人たちの何人かは、きっとわたしたちが性に踊るのを異常事態として見ているね。
https://note.com/yuri0101/n/n7bee7e01dc6c
恋愛は、そもそも異常、
世の中には、ドエスとドエムの華麗なるプレーが夜な夜などこぞの街かどで繰り広げられているのだろうし、
身体の結びつきというようりも
純愛の見つめあいから湧き上がる高揚に至福を感じあっているカップルもいるのだろう。
前者が異常性をもつ、と言えば人はたいていうなずくものだけれど、
統計の平均が正常な恋愛だとすれば、
後者のような純粋な恋愛も稀という点において、異常と言えなくもない。
異常のパレードここにあり。
出会い、接近、それから時間の共有のあり方、それらにルールは課せられていない。進捗はカップルの自由な采配に任せられる。
正常なる恋愛、そのようなものは定義できないし、定義されるようなものでもないだろう。。
わたしたちの恋愛は、どうかな。
異常、正常なんていう判断の枠を超えたロマンスであればいいのにな。
それも、今後どうなるか、わからないときた。
「恋愛依存症傾向が高い。」
彼の言葉だ。心臓が痛い。
7⃣<「君を変えられるのは、君だけだ。」の真偽>
聞くには聞いたことがあるけれど、その実態を知らないものって星の数ほどはなくても
おそらく今までついてきた溜息の数ほどあると思う。そのうちのひとつ、一体全体この恋愛依存症とはなになのか。
依存的恋愛の対局が自立した恋愛だとすれば、
そこに誰が見ても明瞭な違いはあるのだろうか。
正常か、異常か、そのようなものが恋愛にないのと同様に、依存性の如何もそのときそのときの主観にすぎないのか。
例えば、なんでも彼氏に意見を聞く子がいたとして、はじめは彼氏は頼られていると喜び楽しんでいたとする。それがいつしか、依存症だと面倒に思うときがでてきたり、ときには思い出したようにやはりかわいいし、たよりにされているのだな、と雄的な内部構造が満たされるときがあるというような具合に。依存症であるか、そうでないかは、カップル同士の主観。たよりたよられる関係性があってもうまくいっていれば依存的でもよし、うまくいかなければ依存症。
それなら、別れるカップルはどちらかが依存症であったといえる事になる。それもおかしいな。
恋愛は、陶酔や愛情による幸福感、獲得による満足感、恋人との一体感、肌と肌が触れ合うことの癒しや甘美な至福感、様々な喜びをもたらしてくれるもの。
これは、他者が存在して成立する喜びなのだから、それは他者依存的な幸福のひとつと言える?つまり、そもそも恋愛というものが、依存的性質からきりはなせるものではないとは考えられない?
彼はわたしを観察して、
「これは彼女を自滅させるかもしれない。自滅はしなくてももっと彼女と満足いくパートナーシップを描けるように彼女に変わってほしい。」
そう彼は考えた。
それで、
「人を変えるなんて、しない方がいい。まず変えられるのは、自分だ。」
なんて、常々言っていたからだろう、
こうして、3冊の本を置いたままわたしはぽつねんと布団で一人いることになっている。
「君を変えられるのは、君だけだ。」
そういうことなのだろう。最後の救世主は、内側にいる。わたしたち自身だ。変わる決意をするのは、わたしたち自身だ。
そして、矛盾するようだけど、わたしたち人は環境によって、変わる。受け身として、変えられる。よくもなればわるくもなる。
孟母三遷の教えとか、朱に染まればなんとかという有名どころは、環境やかかわる人によって性格なり習慣なり、わたしたちを構成するなにかが変わることを意味しているのだろう。
格言やことわざの世界だけではない。同じ空間で過ごしていると、脳の働きが似通ってくると科学的な研究が出てきているそうだ。脳神経も電波なのだから、影響を与え合うのは何も不思議ではない。
「君を変えられるのは、君だけだ。」
わたしたちは環境の影響を否応なく受けてしまう生き物ではあるけれど、
意図すれば能動的に変わりたいように変わることもできるということなのだろうか。
そして、意図しない限り、慣性の法則に従うように、環境や周囲の人の傾向に左右されるがままになる。よどみに浮かぶ泡沫ってわけ。
ここには、まだもう一歩深いところに何か大切な気づくべき智慧のようなものが潜んでいるように思う。それが、何か今はわからない。
実は彼からメールが一通だけ入っていた。
それはわたしが病院のベッドで目覚めた日に届いたメール。おそらくではあるが、わたしが目覚めたら病院の人が彼に連絡するようにお願いしていたのだろう。
メール曰く。
『はずき、そんなにショックを受けるとは思わなかった。
すぐに救急車で病院に行った。お医者さんは、命にはまず別情がないとのこと、それと、心拍数も安定しているからすぐ意識が戻るとのはなしだった。目が覚めるまでそばにいたかったけれど、ドイツへの留学にいく。
そばにいれなくて、ごめん。
はずき、だいすきだよ。君が思っている以上に、大切に思っているんだ。
こうして、傷心で気絶するなんて、やっぱり君は感受性が豊なんだね。それと、僕が思っている以上に僕を好いていてくれるのかもしれない。
同時にやっぱり改善が必要なほと依存的傾向があるんじゃないかって思うんだ。
だから、敢えて少し連絡をしないよ。どうか、一度僕フリーの時間を作って、自分を見つめなおしてほしい。僕に染まった君ではなく、君自身を君が見つけて確かなものにしてほしい。』
女子的には『遠くにいても傍にいる。』なんて、ロマンなひとことを期待するが、それは求めすぎというものだろう。女子の”オンリーワン”願望を満たしてくれる少女漫画ぐらいなものだ。
・・・・。
わたしは、本当に好かれているんだろうか。大切に思われているのだろうか。わたしが思っている以上に思っていてくれる?それはどの位だろうか。
数値化できないものを数値化することは、非科学的に思えるが、科学的にメリットが実証されているらしい。例えば、怒りをコントロールするのに、今の怒りは、70などと数値化することで、感情を扱いやすくなるそうだ。わたしを思ってくれてるのは、数値にしたら、どのくらい?彼を思う私の気持ちが、一万ならどのくらい?
幸か不幸かわたしは怒りをあまり感じない。怒りは、よくない、お釈迦様のいう三毒のひとつに、怒りがあったはず、そんな無意識レベルにまで落とし込まれた認識の結果なだけなのかもしれない。そのためか、ネガティブな感情と言えば怒りを通り越して、不安や悲しみがもっぱらである。今日もそのうちのひとつ、不安がやってきた。
不安は、不安の思考を次々とひっぱってくる。こんな具合に、インナートークが展開していく。
彼に、もしかしたら、重いって思われてたんだろうか。それで、うまいこと言って、もう日本にかえってくるつもりもないんだろうか。日本に帰ってきたところで、もしかしたら、会えないかもしれない。会ったとき、また別のものを渡されるのだろうか。
もしかして、もしかしてドイツにも行っていないのかもしれないよ。日本にいて、別の女性の方と・・・。
あぁ、なんてこと、そんな疑いなんてする人じゃなかったのに。好きな人を疑うなんて、自分に許すタイプじゃなかったのに。信頼に価値を置いていたはずなのに。いやだ、自分がきらいになる。内側が揺らいでるよ。
心が不安で満ちて、満ちて灰色に全身が染まった。
心臓は、破裂寸前の風船。ズキンズキン、あかずきんくろずきん、胸がいたい。
深呼吸をして考える。するべきことは、何だろう?
わたしは、彼が好き。だから、恋愛依存症たるをつきとめ改善する。彼に染まりすぎている、と評されたわたしは自分を見つめなおし、どう改めていくのか検討するんだ。
人はね、心が痛いと涙も出なくなるんだよ。涙は癒しをもたらすけれど、それができなくなるの。土地を潤すには、水が必要だけどその水がない。天から雨は、思うようには降らない。竜神様の気まぐれか、それとも配慮か、いじわるか。
すぐに涙が出るのが、悩みのひとつだったはずなのに、出ない。からからだ。ただ、ただ、痛い。水は、脳のどこかと、身体のどこかに出口が見えず偏ってぐるぐると、まわってる。
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