夏、あの日々のつづき
夏っぽい写真を探した。僕が夏を好きでいられる理由なんてせいぜいデラウェアの旬、ということぐらいかもしれない。元々外でバリバリ遊ぶようなタイプではなく、家でひっそりジメジメしているのが好きだ。出かけるにしても映画館など暑さを避けて行動していた。子どもが大きくなったことでようやく出掛けることに抵抗がなくなった。子どもに連れ出されるとは何事かと。あの子たちにきっかけをもらえている気がする。子が親に注いでくれるものだけが無償の愛のような気がする。その気持ちは忘れずに家族に報いたいな。
夏出かけたといえば映画館に久々に行ったこと、公園で水遊びをしたこと、水族館にイルカを見に行ったことぐらいか。前に水族館前に行った時より子どもがとても喜んでくれて嬉しかった。ちょうど出かけた時期は南海トラフ臨時情報が発令中で、いつもは気にしてなかったのに避難経路ガン見してた。防災グッズ一式が入ったリュック(9㌔)もふたつ車に積んでた。いざ災害が来たら取りに行けないけど、無いよりはマシかと思って。いつもは海から遠い場所に住んでるけど、この国に安全と言い切れる場所は無いんだと改めて思い知らされた。
「ねぇどこにあるのそんな場所がこの世界に」の一節が何度も響く1週間だった。
出掛けることに抵抗が減ったといえばライブハウスに行くこともそうだ。若いときは周りの友達同士の多く見える感じがどうも苦手で、ひとりで赴くと疎外感を覚えていたような。歳を取ると恥ずかしさも自然と消えた。あと周りは自分が思っているほど僕のことを認識していないことにも慣れた。僕はライブがなければ生きていけないというタイプの人間ではない。ここ数年間は家で閉じこもることで生活を維持しなきゃいけなかったし、見たいものを多数逃しても特に思うことはない、と言い聞かせていた。しかしここ数ヶ月の短期間で、長年聴いてきた俺の憧れたちの鮮烈な生き様を見せられて心に傷を負いそうなぐらいだ。僕じゃなくて彼らの生、実在をこの目で見た。見終わった後は長生きしろよ、長生きしようぜの気持ちに。「また生きて会おうぜ!」と叫んだ山田将司のカッコよさは言い表すことができない。さよならポエジーのライブのことは年末にでもまた書きたい。メモリアルな公演では無かったのだが、僕にとっての大事な記憶のひとつになった。ペトロールズの3人は下界に遊びに来た仙人たちのようで、佐々木亮介は映画の中の人物かのようだった。ワイヤレスイヤホンをライブハウスで落としてthe dadadadysの終演後探したのは情けなかったな…「ROSSOMAN」を半泣きで眺めた記憶は今も鮮明。小池貞利にもやっと会えたな、長かった。
カネコアヤノ、ペトロールズを見に行こうとしていた日に山田亮一の逮捕の報道を目にした。山田が逮捕されても曲そのものは何も色褪せることはなかった。彼の甘えも失敗も創作もすべてが生き様なんじゃないだろうか。自分にとっての山田亮一とはバズマザーズ全作とWorld's System Kitchen、RE DISTORTIONだったことも大きかったのかもしれない。アパルトの中の恋人たちと17才って配信出たのが2020年だったので、動画サイトにアップロードされた曲を何度も聴くこともしなければCD貸してくれる友達もいないリスナーはREGRESSIVE ROCK聴く術がなかった。上記2曲への思い入れは薄いかもしれない。PK shampooも大好きなのでサイキックフェスに埋めきれない穴を作ってしまったときはゲンナリしてしまったけど、今でこそ言えるが捕まったのがあの時でよかったんじゃないか。サイキックが大成功した後に暗い影を落とした別の世界を想像したときの方が悲しくなった。
仮に「山田がユンボに乗ってライブハウスの壁を破壊しながら登場し現行犯逮捕された」だったら謝罪はするべきだと思う。ライブハウスにいたお客さんは間違いなくトラウマものだろうし今後安心してライブを観ることはできないだろうからせめて謝るべきだ。しかし今回の件、罪は犯したけど山田亮一に直接迷惑をかけられた覚えはどこの客にもないはずで、僕としても勝手に好きになって勝手にガッカリしているだけだ。誠意ある謝罪は文章より行脚しかない。他バンドのファンを見習って「次は〇〇と〇〇の再現ツアーもやろうか」ってスタンスで待ちたい。
世の中はミュージシャンに非凡な才能を求めているのに「ある程度の」常識もセットで求めるんだろうか。僕の知らないバンドマンが居酒屋で泥酔してファンやお店に迷惑かけた話を今週たびたび見かけた。とっかかりの時点で「どうして平気で他人の迷惑な行動を事細かくネットに書いて喧伝できるんだ?」ということに疑問が拭えずそれ以上考えてみる気も起きなかった。たとえば家族が交通事故を起こした話を野次馬にネットに書かれたら、たとえば事件を起こした友人の子どもの生い立ちや住んでいる場所が詳しくネットに書かれていたら、これらの出来事もしょうがないそんな世の中だからで片付けられるか?と思わされてしまった。話が飛躍して申し訳ない。さっきも書いた常識の尺度って人それぞれだから難しい。僕にもたしかに幻滅してしまって音楽聴けなくなるような有名人の素行、たとえば生活しているパートナーや家族に暴力を振るっているような報道が出たら聴こうとは思えなくなるだろう。周りに呼びかける誰かの行動もきっと優しさゆえだから、人とかかわるっていつも大変だ。
そういえばこの夏にBLANKEY JET CITYの楽曲配信も始まった。逸話を見る限り、彼らも一般的な価値観では収まらないような苛烈なひとたちだったと認識している。そんな彼らが放った作品たちに乗った現実や優しさに教わったものもたくさんある。これからも世の中に伝わり続けてほしい。
優しさや孤独との向き合い方という部分において、ひとつはplentyというバンドからたくさんの想いを受け取っていた気がする。今でこそひとりじゃなくなったんだけど、友人も恋愛もなかった学生時代だった。友人たちは僕のことを友達だと思ってくれていたんだろうけど、僕がその気持ちを素直に受け取る余裕がなかった。努力していないことを知っていたから。そこから「努力できなかった」という負い目みたいなものを抱えて故郷を去ってしまった、という過去がある。その時期にずっと聴いていたのがplentyだった。今どんな日々で過ごしていても「蒼き日々」のつづきに生きているという感覚を漠然と持っている。もう僕だけの世界ではなくなってしまったんだけど、憧れていた普通の生活はすごせている気がする。子どもはよく、今日初めて食べたごはんの話をしてくれる。チーズを食べた時はとても嬉しそうにしていた。デラウェアをよく僕と分け合って食べている。眠る前と仕事に行く前はいつもご挨拶をしてくれる。これからあとどれぐらいの間話相手になれるかわからないけど、せめてあの人たちの前にいられるうちは誠実に生きていたい。あの子たちとの距離も僕なりに見つけていきたい。とりとめない内容でしたが、ここまで読んでくれてありがとうございました。
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