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【短編小説】凍った眼鏡 1

よく来る定食屋には異様な雰囲気が漂っていた。僕はそれを一人で全身に浴びている。

仕事終わりに寄ってもだいたい客のいないこの店は、今日も例にもれず僕のほかに誰もいなかった。その後に眼鏡をかけた女が一人来ただけだった。そして彼女は僕の心を怪しくかき乱し始めた。

彼女は着席すると同時に泣き出したのだ。その様子は引力のように僕を引っ張った。蛇口を閉め忘れた水道のように涙が流れる。声を出さずに彼女は泣き続けている。片言の日本語を話す四十代ほどの女店員は、客が狭い店内で引き起こす惨事にまったく関心がなさそうだ。空いた座席で頬杖をつき、天井近くに設置されたテレビをマネキンのように見ている。

女性は注文をするときもそのままだった。それが自然の摂理らしかった。薄白い左右の頬から、液体は無抵抗に落ちていく。涙は拭われない。彼女がするのは鼻をかむことだけ。だから彼女の頼んだ麻婆定食が届くころには、テーブルの上にはティッシュの茂みができていた。例の店員は興味のなさそうな顔で料理と引き換えにその庭を撤去した。女性は相変わらず泣きながら麻婆豆腐をほおばっている。僕は釘付けになっていた。もはや神秘的にも見えるその様子が、僕の心に悪魔的な焦燥感をもたらし遊ばせていた。自分の目の前に置かれたラーメンの麺が伸び始めていることを気にする余裕もなかった。彼女の白いシャツの胸元は豪雨のせいで変色し、じわじわと広がっていく。

どれほどの悲しみが彼女に襲い掛かっているのだろう。それともついに壊れてしまったのだろうか?女は二十代くらい。染みが拡大する白いシャツと黒のスキニーパンツ。そして黒縁の四角い眼鏡。二月にしては足りない簡素な格好。服装からは大学生か働いているか、それとも何もしていないか判別できない。眉はしかめ面を演出させる傾きのまま固まっている。そんな表情をしながらも、大きな皿の並ぶ定食は少しずつ減っていく。遊園地で延々と動き続ける人形みたいだった。

意識が自分から離れたところで迷子になっているせいで、僕はしばらく自分がラーメンを食べ終えたことに気付かなかった。熱が冷めたように途端に恥ずかしい気分になり、席を立って会計をした。店員は無言でお釣りの小銭を手渡す。僕は最後に例の客を振り返った。女性はやはり泣いている。怪しさを掻き立てる頬に刻まれた二筋の線が、星を引きずった跡のように輝いている。しかし口元に運ばれる麻婆豆腐のせいで、テーマのわからない現代アートのようになってしまう。

店を出た。ひどく疲れた。今日一日の労働がもたらした疲労を、軽く超える波が押し寄せた。早く家に帰って湯船につかるのがいいと思った。なぜなら今日はまだ水曜で、木曜と金曜がいやらしい微笑みで僕を待っているから。

定食屋の前に設置された灰皿の横に立ち、いつものように煙草に火をつける。それを咥えて煙を吐いた。夜で塗りつぶされた視界に、煙草の先端のいびつな火だけが明るい。余計なものが何も見えなくて頭がすっきりする。燃える赤、それと車が走り去る音だけ。脳に残った履歴を削除していく解放感。僕は週の何回か、この定食屋で夜ご飯を食べ、店の前で煙草を吸って終える。何も考えなくていいから楽だ。二月の夜の冷たい空気が心地いい。

しかしその休息はたやすく破壊される。今日はやけにイレギュラーが多い。例の女性が店から出てきた。もう泣いていなかった。無表情を塗りたくった彼女が今どんな感情を持っているのか想像できない。彼女は煙草を吸っている僕と一瞬目を合わせ、暗闇の中へ歩き出す。だが数歩して立ち止まり、僕の方へ振り返った。
「一本、くれませんか」
のぞき込むように彼女は僕に近づく。眼鏡を通した瞳は大きく、夜に呼応するようにひっそりと澄んでいた。目の下は赤く、店内での様子が現実だったことを強調している。僕は突然の接触に、体温が不気味に上昇するのを感じた。これは危険を知らせる信号かもしれない。

「もうないですか」
芯のある声だった。鉄塔のような冷たさに僕はたじろぐ。確か残り一本だけあったはずだ。関わりたくない気持ちだったが、彼女の号泣の理由に興味があったため、僕は最後の一本とライターを差し出した。彼女は黙って頭を下げ、それを両手で受け取った。カチカチと四回目で煙草の先端に火が灯る。彼女はすぐに咳き込んでしまった。
「ごめんなさい。吸いたくなることなんてめったにないから」
ついさっきまで違和感の塊として存在していた人間に謝られているのが不思議だった。からかってみたい気持ちに駆られた。
「吸いたい気分っていうのは、例えば落ち込んでいる時、とか?」
しかし僕の言葉に彼女は何も答えなかった。自分自身を見つめているように、彼女の視線は何もない暗闇に固定されている。ゆっくりと吐き出される煙に、ため息がまじっているような感じがした。僕は自分の煙草を灰皿に捨て、ノックした扉が開くのを待つ人らしく何をするでもなく立っていた。向こうで停留所に停車したバスのアナウンスが聞こえた。それからそのバスは僕らの目の前の道路を過ぎていった。あとには冷えた風をまとう沈黙が続く。

「もう吸わないんですか?」
女は僕の存在を思い出したように尋ねる。ノックした扉から現れるのではなく、ここに何しに来たんだという様子で来客に後ろから話しかけるトーンで。
「それが最後の一本だから」
なるほど、というように彼女は頷いた。彼女は半分ほど吸った煙草を僕に差し出した。
「これは失礼しました」
「別にいいよ。二本も吸ったらフラフラしちゃうから」
正直なところ煙草は得意じゃなかった。一本吸っただけでもめまいがする。じゃあどうして吸っているのかと聞かれても、僕にもうまく答えられない。吸い始めたのは二年も前になるがわからない。
「なんですか、それ」
彼女は少しだけ左右の口角を上げる。赤い目元がやわらかくなった。必要以上のものが見えない暗がりの中で、彼女の表情だけがはっきりと捉えられるような気がした。
僕に差し出した煙草を再び吸い始める。

言葉もなくその様子を見ていた僕の携帯が震えた。ブーと揺れる音が煙にまぎれてこの空間を支配する。僕はため息をついてそれを無視した。
「いいんですか、でなくて」
「大丈夫」
僕はぶっきらぼうに答える。
「この時間の着信っていうのは、気分が上がるか下がるかのどちらかにはっきり分かれることが多いと思うんですけど、どうですか」
「僕も同感だよ」
そしてそのまま携帯を放置する。やがて再び沈黙が訪れた。

「君は大丈夫なの」
「何がですか?」
「何がって、さっき」
どうして泣いていたのか聞こうとすると、彼女は言葉にかぶさるように煙草を灰皿に捨てた。眼鏡の縁を触り、僕の方に向き直る。
「ありがとうございました。それでは、さようなら」
くるりと背中を向け彼女はさっさと歩いて消えてしまった。僕はしばらくその場に立ち尽くしていた。疲労と満腹感と体内の煙で、ゆらゆらと瞼が重たくなるような感じがした。次にこの定食屋に来るときは麻婆定食を頼もうかな。

そんなことを考えていたら、彼女に貸したライターを返してもらっていないことに気付き、やっぱり次は担々麺を頼むことに決めた。そして自宅へと歩き出した。

つづく

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