【小説】意図ある告白【3】2/3

          5

「ねえ葉月。子供が大人になるって、どういうことだと思う?」
 中原は突然、そんなことを聞いてきた。
「それはあれだろ、子供が大人しくなったら大人ってことだろ」
 我ながらつまらない返事になってしまった……。いつものこととはいえ、もう少しあったように思う。
 俺のこんな返しにもこいつは
「なるほど、いいこと言うね。さすがは葉月だ! つまり、子供が夢を見るのを諦めて、現実に目を向け始めたその瞬間から、大人の階段を登るってことだろ。だったら、葉月はもう立派な大人ってことだな! 先を越されてしまった」
 ははは! と笑う。
「俺の返事を歪曲するな。いくら何でもその解釈は悲しすぎるだろ。それと、俺が夢を諦めていることを前提に語るな──俺にだって夢を見る権利はある」
「夢を見る権利ね~。でも、その権利だって、夢がなきゃ執行できないんだよ──葉月にはあるのかい? 権利を執行してでも叶えたい夢が」
「それは……」
 黙ってしまった。これでは肯定しているのと変わらない。何か言わなくては。
「中原、お前はどうなんだ──先を越されたってことは、何か叶えたい夢があるってことだろ」
「それは秘密さ。夢というのは安易に公言すると、叶わなくなるって聞いたことがある」
「だったら尚更、俺から夢を聞き出そうとするな──叶わなくなったらどうする」
「それが目的だったんだけどね〜」
 中原はニヤっと口角を上げる。
 まさか、中学でもこいつと同じクラスになるとは、俺もついていない。
 折角の新天地、俺以外にも気の合う奴がいるかもしれないのに、何故かこいつは俺としか話そうとしない。そもそも俺とも気が合っているとは言い難い。
「で、真面目な話どう? 葉月だったらいつ、大人になったな〜って思う?」
「そんなの考えたこともないな。……まぁ安直だが、社会人になったら、とか、家庭を持ったら、とか──そんな感じかな」
「僕は一般論を聞きたいわけじゃなかったんだけどね。まぁいいや、だって葉月だもん」
 そう言ってから少し思案する。
「僕が思うに、大人になるってことは、安定することだと思うんだよね」「安定ね……何故そう思う?」
「よくぞ聞いてくれた! 葉月だったら絶対興味を惹くだろうなと思っていたよ!」
 いや、会話の流れ的に聞いただけで……ってこいつにこんなこと言っても無駄だな。
「安定って言っても複数ある──生活の安定、精神の安定、環境の安定、人間関係の安定。安定なんて言葉が気に入らないなら、そうだな……逃避と言い換えてもいい。僕たちはまだ中学生、それも一年生だろ。それでも、この先高校受験が待っている。その先は? 大学受験、そして就職活動と、まぁ順調に行けばこうなるだろう。では、就職活動が無事終わり、晴れて社会の歯車として機能したとしよう。それでもう終わりってことはないだろ。社会に出れば次は競争が始まる──他者を蹴落とし自分をアピールし、よりよいポストに就こうとする。それからは? まだまだ先は長いよ。会社員からフリーランスになる人もいるだろう、起業する人もいるだろうね」
 ここで中原は一度区切る。
 立て板に水の如く喋る奴だが、さすがに水の中では呼吸が続かない。一旦水面から顔を出し、酸素を体に取り込むように、一呼吸入れる。その動作がやたらオーバー気味に見えたが、それも一種のパフォーマンスなのだろう。
 こいつはこれでいて、自分の小さい体躯をコンプレックスだと感じているようで、身振り手振りを交えて少しでも自分を大きく見せようと努めている。心意気は感心するが、やるならもっと実用的なところからはじめるべきだ──牛乳を飲むとか、運動するとか、早寝をするとか、いろいろあるだろう。
 飄々としている癖に、変なところで人間味を発揮する──まだ中学一年生、これからだ。
「ここからが重要──今の流れのどこに安定があったと思う? 常に環境の変化に順応しなくてはいけない人生に、安定なんてない。それでも人は、安定を欲する。だからなのかな、人は変化する生き物だ。常に回りに目を配り、状況を見定め、対応しなくては生き残れない──それはわかる。でも、それができる人間が一体どれだけいる。変化する生き物であって、変化を恐れる生き物なんだ、人間は──だから皆安定を欲する。マイホームを欲しがるのもそう、不安要素をなくすのもそう、上場企業に勤めたいのもそう、結婚して暖かい家庭を築きたいのもそういう事さ。それが悪いことだとは思わない、むしろそれが普通だと思う。子供の頃みたく、活発で挑戦心に溢れていた時期とは違う。失うものが増える、守るものが増える──だから皆、大人しくなる。今を守るため、失わないようにするために──それが大人になるってことだと、僕は思うんだよね。以上! さて、感想をお聞かせいただこうかな」「え? あ~、そうだな……」
 言いたいことはなんとなくわかる。俺にどんな返答を期待しているのかもわかる。少し癪だが期待には応えておこう。
「つまり──現実逃避が大人になること、そう言いたいんだな」
「ふふ、そういうことだね」
 大人しくなったから大人になるのではなく、大人になるためには大人しくなるしかないってことか。
「童心に帰るなんて言葉は、子供で居続けることができなかった大人たちの妬心に過ぎないね。と、ま~、ここまでが僕の持論だけれども、何か異議申し立てはあるかい?」
「いや、今のところはないよ」
「今のところはね……。わかった! いつか聞かせてよね」
 楽しみにしている。そう言い残して中原は教室を後にする。
 時計に目をやる。放課後に居残ってまでする話でもなかったのだが、時間潰し程度にはなったかな。
 ガラガラ、と教室のドアが開く。坂下が教室に入り、そのままの足で俺の方に近づいてくる。
「委員会が長引いて遅れた」
 そう端的に遅刻の理由を教えてくれた。遅刻と言っても五分・十分なのだが。
「待つことには慣れている。で、用件はなんだ?」
 部活に所属していない俺が、放課後になっても学校から帰っていない理由は、坂下が俺に「放課後話がある」そう言ってきたからだ。
 異性にそんなことを言われれば、期待してしまう輩もいそうだが、相手が坂下ではフラグは立たない──立つのは総毛だけだ。
「用件は一つ──中原さんの現状についてあんたがどう思ってるか。入学してからもう二月以上か経過してるのに、あの子はあんた以外と交流がないように見えるんだけど──他の子たちはもうそれなりに馴染んでいるのに」
 坂下の用件が中原関係であることはわかっていた。
「そんなこと、俺には関係ないな──中原の問題であって俺の問題ではない。あいつに直接聞いてみたらいいんじゃないのか? 何で友達を作ろうとしないのかを」
「本人に聞いても何も答えてくれなかった。だから、あんたにこんな話をしなくちゃいけないんでしょ」
「それは残念。じゃあ諦めろ──俺は何も知らない」
「それはあんたが何も聞かないからでしょ。友達だったらそれくらい聞きなさいよ!」
 友達だったら、俺はその言葉に敏感に反応してしまう。
 ほんと、いい迷惑だ。
「周りに馴染めない奴を気にかけるのはお前の勝手だ。その解決に乗り出すことを、俺は否定しない。でも、俺を巻き込むな。自己完結できないことを、手に余ることをやろうとしても上手くいかない──絶対失敗に終わる」
「それでも何とかしなくちゃいけない時もある。あんたには一生かかっても理解できないことなんでしょうけどね」
「その使命感は立派だと思うよ。でもそれは、お前自身の使命か、それとも委員長としての使命か?」
「どっちだったら納得するわけ」
「どっちも納得しない──他人に頼らなくちゃいけないような使命だったら捨ててしまえ」
「あんた何かと一緒にしないで!」
 俺の物言いに、坂下は怒鳴る。
「あんたは一人で平気みたいな顔ができていいわよね。でも、人は一人で生きていけない。考えたことある? 中原さんがどうしてあんたとしか話さないのかを」
「考えたことないな〜。まぁ、俺には一生かかっても理解できないことなんだろうよ。それより坂下、一ついい案がある──中原に友達を作る方法だ」
「何よ?」
「お前が友達になればいい」
 パチン。坂下は俺の頬を叩いた。睨みつける坂下に、俺も睨み返す。
「ほんとあんたって最低ね。何もわかっちゃいない」
 そう吐き捨て、坂下は教室を出て行った。
 教室から喧騒は去り、静寂だけが俺の体を包みこむ。心地よいはずの静寂が、何故かこの時だけは酷く気持ち悪く感じた。
 排気口から流れる生暖かい風。
 加工したてのベニヤ板の匂い。
 ジュースを溢した後のべたつき。
 どれも気持ちが悪く、不快になるものばかりだが──この感覚はそのどれとも言えない。言うなれば……、思い出せそうで思い出せない時の感覚。
 喉まで出きているのにそれを吐き出せない辛さ。
 呑み込まなくちゃいけいやるせなさ。 
 消化不良を起こし、胃が逆流する。そして最後には、不完全物質を生理現象のように、酷く醜く愚かしく、ただぶちまけるしかなくなる。
 さぞ気持ちがいいんだろうな──感情をぶちまけるのは。
 叩かれた頬に手を当てる。
 その部分だけ、自分のものとは思えないほどに──熱を持っていた。

 異変に気づいたのは、入学してから半年以上が経過した紅葉の季節。
 坂下は相変わらずトラブルの鎮火に勤しんでいた。惚れた腫れたの仲裁、授業中騒がしい奴に対する制裁──獅子奮迅の活躍だ。
 中原はと言えば、少し様子がおかしい──昼休みや放課後になればすぐさま俺の所へ駆けつけ、聞いてもいない雑談を一人まくし立てていたのだが、最近は一人席で本を読んでいる。雑談以上に面白いと感じる本に出合えたのなら、俺としても好都合だが、それでも中原が興味惹く本が如何ほどなのか、少しは気になる。
 そう思い、何度か中原の席を通りがかり、本の表紙を確認してみたのだが、一週間同じ本を読んでいた。
 読書スピードは人それぞれ──活字に慣れていない人なら分量にもよるが、一冊読むのに二、三日。休日を丸々読書に当てられれば、一日で一冊は読めるだろう。だが、中原ほどの読書家なら、五時間もあれば大抵の本は読めてしまうだろう。
 何度も読み返したくなるほど面白い本なのか、それとも別の意図があるのか……。
 坂下にも変化が起きていた──例の一件以来、俺にはもう関わってはこないと踏んでいたのだが、残念ながらそうはならなかった。それでも俺への文句は主に──学校行事の取り組みがなっていないだの、怠惰な面にフォーカスされることがほとんどで、中原についてあれこれ言ってくることはなくなった。
 本当はいろいろ言いたいことがあるんだろうが、俺に言っても無駄だと理解したのだろう。
 学校行事といえば、この前体育祭が終わり、残す行事は合唱コンクールのみとなった。学年ごとに課題曲と、クラスごとの自由曲の計二曲。女子はソプラノ・アルト、男子はテノール・バスと、それぞれパート分けが行われた。
 ちなみに俺はテノール、坂下はアルト、中原はソプラノとなった。
 主な練習は音楽の授業で行われ、全体練習を行ってから、別々の教室でパート練習、最後にまた全体練習で終わり──大体いつもこのサイクルだった。
 音楽の授業では練習が足りない──そう考える熱心なクラスは、放課後に残ってまで練習を行っていた。
 まぁその熱心なクラスというのが何を隠そう、俺のクラスなのだがな。
 クラスメイトの一部は「部活があるから練習には出れない」と、異議申し立てを行う奴もちらほら見受けられたが、取りまとめているのが坂下だからな──それは通らない。
 ぶつぶつ文句を言ってはいたが、まぁ逆らわない方が早く済むこともある。
 俺はと言えば──部活には所属していない、急ぎ帰る必要もない、でも早く帰りたくはあった。なので、こっそり抜け出して見たのだが、坂下にはお見通しだったようで、首根っこ掴まれ、教室に送還された。
 練習は毎日行う──坂下は初めそう言っていたが、さすがにそれは厳しいとの声が多数あったため、週三回に落ち着いた。三回でも多いくらいだと俺は思ったし、クラスの雰囲気からも同様の空気は感じ取れた。まぁ、この放課後練習があと一ヶ月間続くとなれば、暴動が起きても不思議ではなかったが、本番まであとニ週間ともなれば、さもありなん──割り切れるものだ。
 何度目かの放課後練習、腹から声を出すわけではなく、ただ無気力に声を発するだけの練習が無事終わる。部活や習い事を行っている奴はさっさと身支度を済ませ、教室を足早に去っていき、他の連中も一通り会話を楽しんだのち、教室を後にした。
 クラスメイトが雲集霧散した教室に、俺と中原だけが残る。
 いつもなら話しかけてくるシチュエーションだが、中原は俺を一瞥するだけで、何も言わず教室から出ようとした。
「おい! 何だそれ!」
 俺は咄嗟に声をかけていた。
 何か言いたいことがあったわけでもない、何か聞きたいことがあったわけでもない──なのに、無意識に声をかけていた。
「何だそれは、何だその顔は──言いたいことがあるのに言わないなんておかしいだろ! お前らしくない。何があったか知らんが、俺にそんな態度で何かを訴えてくるな──言いたいことは直接言え」
 中原は何とも悲惨な笑みを俺に向けた。
 悲惨も悲惨──見ているだけで痛々しいほどに。
「葉月から話しかけてくれたのは、これで二回目だね。今でも覚えているよ、初めの一回は僕が転校して間もない頃だった。懐かしいな〜、まだ二年前くらいのはずなのに──何とも遠い記憶に感じてしまうよ」
「そんなこともあったな。てか、二回だけだったか、俺から声をかけたのは……、もっとあったと思っていた」
「あまり自分を過大評価するのは良くないよ。そんなことより──葉月は声をかけるタイミングがいつも完璧だね〜」
「それはよかった」
「うん。でも、僕から話すことは特にないんだけどね……。葉月は? 何か聞きたいことはないのかい?」
「俺の方も特にないな──お前の態度が気に入らなかったから声をかけただけで、こうして実際話せば、いつものお前、いつもと変わらないお前だと確認できた」
 ただそれだけ。
 俺にはどうせ、何もできないことだ……。
「変わらないか……。葉月にはそう見えるんだろうね。なんせ葉月は──感受性は高いけど感情移入はできない、そんな人間だから」
「何が言いたいのか俺にはわからんが、少なくとも褒められてはいないな」
「そんなことないさ! 別に僕は葉月を侮辱したわけじゃないよ──むしろ尊敬しているまである。そんな気持ちのいい生き方、誰も真似できないからね〜。だから、葉月は今のままでいいんだ──何も気に病む必要はない。これは僕の問題で、誰の問題でもないんだから」
 そう言い笑ってみせる。
 いつもの笑顔で。
「……ああ。怒鳴って悪かったな」
「謝らないでよね、気持ち悪い。さあ、帰ろっか」
 気持ち悪いのは余計だろ──俺はそう一言添え、教室を出る。
 中原はただ笑い、俺の後を追従する。
 懐かしいやりとりに、少しだけホッとする自分がいた。
「じゃあまた明日!」
 中原にそう言われ、正門で別れる。
 俺は何も言わなかった──いつもと変わらないあいつに、いつもと変わらない応対をする。
 明日も明後日も明々後日も、変わることのない学園生活を送る。受動的に時が流れ、逆らうことなく甘受する。
 疑問にも思わない、疑心も抱かない、疑念も残らない。
 あるのは日常──外枠だけで固められた日常があるだけ。
 だから、壊れた時にはもう遅い。
 修復不可能な、復元不可能な、還元不可能な状態で放置される。
 壊したのは間違いなく俺だ。
 中原との関係を木端微塵に砕いたのは──俺自身だ。
 ばらばらに。
 ぐちゃぐちゃに。
 ちりぢりに。
 どろどろに。
 ずたずたに。
 びりびりに。
 めちゃめちゃに。
 原型を留めないほどに、力いっぱい──潰した。
 
 次の日から中原は──学校に来なくなった……。

 合唱コンクールはつつがなく終わり、学校行事の全工程は終了した。
 コンクールと銘打たれているだけあって、例に漏れず順位付けがなされ、俺たちのクラスは全六クラス中──まさかの一位という好成績を残せた。
 まぁ、好成績を残せたからといって、トロフィーやらメダルやら賞状やらが贈呈されるわけでもない。体育館に全校生徒が集められ、その場で簡素な順位発表が行われただけの、何とも面白みのない行事だった。
 内申書の実績欄にも記載されない形式だけの順位ではあったが、喜びもひとしお、クラス全体がお祝いムードであり──「放課後に残ってまで練習した甲斐があった」や「坂下さんのおかげだね」など、皆口々賛辞の言葉を坂下に向けていた。それもそのはず、入賞自体はクラス全体の功績だが、その立役者は坂下で満場一致──異論を唱える者など誰一人としていない。
 賛辞は次第に激賞へと変わり、いささか過剰では? と、一人引き気味な俺と、激流のような喝采を前に少々困惑気味な坂下──入賞しても賞状一つ送られない行事なのだから、せめて賞賛くらいは素直に受け取っておけばいいのに。
 クラスが一致団結し、結果を残せたのはいいものの、その輪の中に──あいつの顔はなかった。
 合唱コンクールの余韻は二学期期末試験と言う名の轟音にかき消され、皆の意識は既に試験勉強へと移っている。
 クラスの雰囲気に別段変わった様子はない──笑い声の堪えない活気溢れる教室。雑多な振動が空々しいまでに響く教室で、空虚に彩られたクラスメイトの中から一人、また一人と、あいつの声音、面影が消失していく。時の流れと同様、受動的に抹消され、次第には、存在ごと歴史となる。
 皆の意識から中原が忘却されるのに、そう時間はかからなかった。
 俺と、そして──坂下を除けば……。
「ちょっと、聞きたいことがあるんだけど」
 中原が学校に来なくなり、約一ヶ月がたった放課後の出来事──坂下が俺に話しかけてきた。
「あんた、どのくらい知ってるわけ──中原さんのこと」
 俺はどのくらい中原のことを──知ってるんだろ。
 何も言ってはくれない、何も悟らせてはくれない──いろいろ考えているくせに、何も教えてはくれない。他人を見透かしているくせに、自分のことは決して見せない。
 いや、俺には見えないんだろうな──明るく活発なくせに、心の中は真っ黒なあいつを。
「……正直、何も知らない。あいつの現状も、あいつの心情も、俺にはわからない──拒絶されたんだから、それも当然。だったら、俺には何もできない」
 確かにあの日、合唱コンクールの練習終わり、少しでもいいから話を聞こうとした。でも、話すことはないとはっきり言われてしまった。
 お前には関係ないと、はっきり言われてしまった……。
「拒絶されたからって、あんたはそこで諦めたわけ? そこで線を引いて、ここから先は自分には関係ないって割り切ったってこと──信じらんない。ほんと、自分が可愛いのね」
「可愛い? 何だそれ、俺は別に自分の保身が──」
「いじめられてたのよ!」
 坂下は俺の言葉を遮る。
 いじめられていた──俺はその事実を、何故かあっさり受け止められた。「そうか……」
「そうかってあんた、それだけなの。なんか他にないわけ!」
「敵を作りやすい性格だって、お前もわかってただろ」
 今更坂下に何を言っても、何を言われても、焼け石に水。
「だからって、いじめられていいわけじゃない!」
 そう、これが坂下四葉。
 俺たちは厄介な者に目をつけられたもんだ。
「気づくのが遅れた──気づいた時にはもう手遅れに近かった。でも、まだ間に合うはず、遅れただけで終わったわけじゃない。だから、いろいろ手を尽くした。……それでも私じゃ、あいつを助けてあげられなかった」
 ほぼ独白に近かった。見せられている身としては、あまり気分のいい光景じゃない。
「それは……仕方のないことだろ。全員は助けられない。たまたま──中原がそうだっただけだ」
「滝野、あんた、まだそんなこと言うの?」
 坂下から向けられた視線は、責めるようでも、憐れむようでもなく──大人からの追及につらつら言い訳を述べ、理由を後付けし、最終的には人のせいにする子供を見ているように、冷やかだった。
「もう無理だろ……、俺とお前にはもうどうすることも──」
「友達だったら救えたかもしれないじゃない!」
 俺の言葉を再度遮り、坂下は今までで一番大きな声で放った。
 友達だったら救えたかもしれない──ほんと、こいつにはうんざりだ。
「いい加減にしろ。お前がやってるのは救済じゃなくただ自慰だろ。反省も後悔も懺悔も、俺の前でするな──すべてが目障りだ。そもそも中原が一言でも、一文字でも、助けを求めたか? お前や俺に、何かアクションを起こしたか? お前が勝手に拡大解釈しているだけなんじゃないのか。勘違いも誤解もするのは勝手だが、俺を巻き込むな。身勝手な救済を押し付けるな。俺はお前の快楽物質じゃない。それと──」
 今まで抑えていた感情が行き場をなくし、堰を切ったように口から溢れ出た。
 一度吐き出してしまったら、最後まで出さなくてはいけない。
「──何度も言わせるな……、俺と中原は友達じゃない」
 そう言い残し、俺は教室を後にする。
 坂下は何も言ってはこなかった。
 理由はわからない。諦めたのか、呆れたのか、それとも……。
 感情の発露はとても気持ちが良く、そしてそれと同時に──とても後味の悪いものだった。

 家の前に中原が立っていた。しかも、制服ではなく私服で。
 白のセーターにジーンズ、黒のダウンコートも羽織っている。靴はクリーム色のスニーカー。まぁカジュアルと言えばカジュアルだが、もう少し配慮に欠けた言い方をするなら、ラフとも言えよう。
 約一ヵ月振りにこいつと会う。久々と言えるほど期間が空いたわけでもないのだが、それでも久しぶりだと思ってしまう。
 俺の存在に気づいていないのか、それとも気づいていない振りをしているのか、中原はただただ宙を見上げている。俺は、そんな中原の横顔をただただ見つめる。
 何を眺めているんだろう……。
 中原が釘付けになるような景色が、映し出されているのだろうか……。
 なら、情趣を味わっているこいつの邪魔はするべきではない……、とはならないよな。
 空を眺めたくてわざわざ我が家に来たんじゃない。空なんてどこからでも見える。場所が違えば見える景色も変わるらしいが、ここから見える景色に自然遺産的価値はない。
 いつも通り、何の変哲もない、無味乾燥で、無為徒食な景色が広がっているだけだ。
「……未確認生命体でもいるのか?」
 この機を逃したら、いつも通りの景色が見られなくなる気がした。
「ん? どうだろうね。今のところは戦果なし、かな」
「まぁそうか。そんな簡単に未確認生命体を確認することはできないよな」  
「未確認を確認っておかしな表現だけど、この場合はそう言うしかないよね。でも、僕には夢があるんだ。覚えているかい? 半年前にした話」
 半年前とは中学校に入学して間もない頃だろう。
 確かにそんな話をした覚えはある。放課後の教室で、坂下からの呼び出しを受けたあの日、こいつと雑談で時間を潰した。
「人に話したら叶わなくなるんじゃなかったのか」
「叶いそうにないから、葉月に話すんだよ。僕の数多ある夢の一つを」
「数多ある、か……。じゃあ聞いてやるよ。俺がお前の夢を聞いて、叶わなくしてやる」
「酷いことを言うね~、葉月は。ま、葉月らしいっちゃ葉月らしいか」
 そう言い、空に向けていた顔をやっと俺に見せる。中原の、傷一つない綺麗な顔が、月明かりに照らされた。
 安堵する俺とは対照的に、中原は気まずそうにしている──約一ヵ月ぶりとは言え、こうして顔を突き合わせることに多少の羞恥があるのかもしれない。
「僕の夢はね、未確認生命体や、新種の生物を発見することなんだ」
「未確認生命体はともかく、新種の生物なら発見できそうに思うが」
「あまり生物学者を舐めない方がいいよ、葉月。一種類でも発見されればニュースにだって取り上げられるくらい、すごい事なんだから」
「今の日本にはそれくらいしか取り上げられる事象がないだけじゃないのか」
「それはそれで平和の証しみたいでいいんじゃん」
 全国各地で犯罪が起きています。と言ったニュースを見かけるよりは、上野動物のパンダがめでたく赤ちゃんを出産しました! などと言った、ハートフルなニュースを国民は望んでいるだろう。
「未確認生命体。俗に言うUMAと言われる生命体はどうかわからないけど、昆虫や魚類の新種を発見することができた場合、その命名権は発見者に与えられるんだ。つまり、自分の名を付けることだってできる! どうだい? 生きた証をその名の通り生き物に残せるなんて、ロマンチックだとは思わないかい」
「そこまでして生き残りたいとは思わない。潔さもまたロマンチックだろ。それに、魚類はともかく昆虫に自分の名前を付けると言うのは男女問わず抵抗を感じるものだ。昆虫というのは相対的に見て煙たがられがちな存在だろ。自分とは別の存在とは言え、あまり気分のいいものではない」
「どうだろう、少なくとも生物学者はそんな細かいこと、いちいち考えてないと思うよ。何か一つに熱中するってことは、それ以外に対して冷淡だってことだろ。そんな人間には、外野の野暮な声なんて、木々が風でなびいたくらいのものだろうね」
「お前もその人間の一人なのか?」
「違うよ」
 俺の問いに、中原は笑うでもなく、怒るでもなく、悲しむでもなく、ただ事実を事実として言う。
 人が生まれるように。人が成長するように。人が死ぬように。
 自然の摂理に逆らうことなど一切せず、お得意の皮肉一つ交えず、答えた。
「だから言ったろ──叶いそうにないから話すって。僕にあるのは好奇心じゃなくて功名心だ。発展に必要なのは一握りの興味と莫大な努力。葉月ならわかってくれるだろ? 興味なき努力の虚しさを」
「……、一過性の思考は願望だ。望むものすべてが自分に必要だとは限らない。むしろ望まぬものにこそ、価値があったりもする。ほんと、難しいな」
「うん、難しい。夢を叶えることと、叶うことの違いは、そこにあるんだろうね。でもさ、もしも……、もしも葉月にとって未知だと言える生物が現れたとしてさ、そいつの命名権が自分に与えられたとしたらどうする? 自分の名前を付ける?」
 今までとは明らかに、言葉の重みが違った。これまでの一般論や普遍的答えを望んでいるようには見えない。
 か細い光を頼りに前進しているような、その先に自分の望む道が続いているかはわからないが、それでもそれを頼りに進まなくてはいけない不安が、中原の言葉の端々から伝わってきた。
 辺りはもう暗くなり、俺たちを照らす主な光源は、月だけとなった。
 一片も欠けていない月が、煌々と俺たちを照らしている。
 手を伸ばせば掴めてしまいそうな、でも決して届くことのない月をちらりと見て、そして……
「付けない」
 と一言、中原に言った。
 やっぱりね──声には出さなかったが、中原の表情から、そんな感想を俺は読み取る。
「自分で始めといてなんだが、こんな話がしたくてわざわざ家の前で俺を待っていたわけじゃないんだろ」
 こいつから気恥ずかしさを感じたのと同様に、俺にもそのきらいはあった。
 男子三日合わざれば刮目して見よ。
 バトル漫画じゃあるまいし、そんなパワーアップイベントが常におこるわけでもない。
 新種の生物発見をニュースで取り上げるくらいに平和な日本で、男子は三日たっても男子のままだ。
 本題に入るまでに、いちいち雑談を挟まないと気が済まない性分は、三日やそこらじゃ治らない。もしかしたら一生治らないかもしれない。
「別に葉月を待っていたわけじゃないんだけどね。まぁいいや。どうせ、僕から話すことなんて一つもないしね。でも、葉月は違うんじゃない? でなきゃ、僕に話しかけたりしないだろ」
 俺からこいつに話しかけた回数は、これで三回。そのどれもが、こいつに対して物申したい時だった。
 ほんと、難しい……。
「……坂下から聞いた、お前のことを。何で話してくれなかったんだ、なんてことは言わん。仮に話してくれていたとしても、俺には解決する術はない。それでも、俺のことを避けていた理由は知りたかった」
 見限られることはあっても避けられることはしていない。
 こいつの気まぐれなら、それでこの話は終わり。明日からいつもの生活に戻ることができるが、そうでないのなら、その理由は知りたい。
「理由ね……。そうだな〜、それを教えたら葉月も答えてくれるかい? どうしたら大人になれるのかってやつを」
 ん? 何の話だ。大人になるための条件? ……いや、確か前にそんな話をしていた。中原は安定がどうだとか言っていたあれか。またなんとも懐かしい話題を引っ張りだしてきたな。それが今回の話に何か関係あるのか?
 まぁでも、ご所望なら答えてやるか。
「わかった、それでいい」
「そうだろうね……葉月ならそう言ってくれると思っていたよ」
 中原は、少し残念そうな顔になる。
 ふー、と息を吐き、そして、決意が固まったのか話はじめる。
「避けていた理由ね。理由ってほど何か意図があったわけじゃないんだけどね──ただ合わせる顔がなかったってだけだよ。今の自分を葉月に見せたくなかった。葉月は知らないだろうけど、これでも僕って繊細なんだよ。忘れているかもだけど、女の子でもあるしね」
「お前が女子なのはさすがに忘れてはいない。でも、繊細だと思ったことはないな──図太いってイメージだ」
「はは! 本当に女の子として見てくれているのかい? 僕じゃなかったら頬を叩かれても文句は言えないね」
「安心しろ、お前にしか言わないよ」
 それは安心だね。そう言い中原が苦笑する。
「イメージに沿えなくて申し訳ないけど、それでも僕は繊細なんだ──とても感じやすいって言えばわかるかな。おっと、女の子が感じやすいなんて、何とも品のない言い方になってしまったね。そうだな~……」
 こめかみに人差し指をぐりぐりさせ、考えているポーズをとっている。そんなことしなくても、言いたいことは大方決まっているのだろうがな。
 閃いた! 見たいなアクションをとってから。
「そう! とても傷つきやすいんだよね、僕って」
「え? ああ、そうなのか」
 リアクションに困ってしまった。
「僕の問題で葉月が気に病むこともなければそもそも気にもしない。葉月が気にするのは強迫観念だろ。何かしなきゃいけことはわかっているのに、それができないもどかしさ。だから、理由を知りたがる。……でも、これだけはわかってほしい──葉月の理解者は、一人じゃないってことを」
 中原の目に映る俺は──自分でも救いようがないと思ってしまうほどに──自己中のそれだった。
 考えない理由をつらつら考え、最終的には相手に委ねる。
 相手が何を言っても、それは相手の価値観であって自分の価値観ではないと理由付けするために……。
 正当化するために……。
 こんな俺の態度によって、中原に傷を付けてしまった。
「ごめんごめん」
 俺の心境とは対極に、中原は相好を崩す。
「まさかそこまで思い詰めるとは思いもしなかったよ。少し言い方を間違えたね。別に貶したいわけじゃないんだ。……うん、やっぱり葉月にはこの表現がしっくりくる──感受性は高いけど感情移入はできない」
 パン。と手を叩き
「さあ! 僕の話はこれでおしまい。次の語り部は葉月だよ。いったいどんな話をしてくれるのか、楽しみだね〜」
「ああ……最善を尽くすよ」
「最善ね──果たして葉月に尽くすことができるかな?」
 こういうところは何も変わらない──一言多いところも、快活とした笑い方も、他人を見透かした言動も。
 ため息を一つ吐き、そして話し始める。
「大人になる条件、それは……依存することだ」
「ふ〜ん。依存ね」
「人は一人で生きていけないそうだ。人は何かに執着し、固執し、最後には寄生する。自分の意見を貫き通すことなんてできない。だから、周りに順応することで自分を守るんだ」
「守るって、いったい何から?」
「周りの圧力からかな。よく聞く言葉に──アットホームな会社です、なんてものがあるが、あれは欺瞞だな。確かに雰囲気はいいのかもしれない。でも、結局そんなの──同調圧力が強いってだけだ」
「面白い解釈だね。なるほど、だから依存なのか」
 得心が行った、そんな顔をする。
「大人になるってことは、自分を捨てることなんだと思う。ふ~、以上で俺の話は終わりだ」
 パチパチパチ。拍手を送られた。初めてこいつに話しかけた時も、似たようなことされたっけな。 
「ありがとう、話してくれて。また少し、葉月のことを知れて嬉しいよ」
 中原はそう言い、空を見上げた。
 町の光に晒され、本来あるべき光が消えている。真っ暗なカーテンの裏には、存在をとうの昔になくした光が、それで何かを伝えるように、今尚輝き続けているのだろう。
 そんな儚い空に、ただ一つ、月だけは変わらず輝きを保っている。
「なぁ、葉月……。月が、綺麗だね」
 空を見上げた中原は言った。
「お前……、バカなこと考えてないよな?」
 俺の返答に中原は笑う──今まで見たことないくらい笑った、腹を抱えて笑った。しかし、俺は全然笑えなかった。
「ごめんごめん、葉月が思いのほかいいリアクションをとってくれたから、我慢できなかったよ」
 人差し指で目に溜まった水滴を払い落としながら言う。
 なんだ、俺は揶揄われたのか。まったく、状況を考えろ。
「さてと、だいぶ冷え込んできたことだし、そろそろ帰ろうかな。最近はインフルエンザも流行っているみたいだし」
 それじゃあ! と言い、俺に背を向け歩き始める。
「おい! また明日、学校で」
 俺は咄嗟に声をかけていた──何故かそうしなきゃいけない気がした。
 俺の問いかけに、中原は何も言わなかった……。
 
 そして、次の日も、その次の日も、やっぱりあいつは──学校に来なかった。

 試験期間と休み。二つの共通項を上げるとすれば、時日が短いことだ。
 普段からコツコツ勉学に励んでいる者には、試験なんぞクイズを解いているようなものだ。単純作業と化した試験は最早、高校に上がるための通過儀礼と言っても過言ではない。
 答えを知らなければクイズには答えられない。だから、俺は答えをひたすら頭の中に詰め込んだ。少しの衝撃でも零れ落ちてしまうくらいに詰め込み、後はそれをひたすら試験用紙に当てはめていく。これも一種の単純作業だ。
 昨今人工知能の発展により、単純作業はすべてコンピューターに取って代わられる未来もそう遠くない、というような内容のニュースを見かけ、一人喜び勇んでいたのだが、姉貴の「あんたみたいな人間がいるから、人工知能の供給が急務なのよね」と言う言葉を聞き、机に向かい直した。
 馬鹿げた発想から新たな発展につながる事はあっても、馬鹿な発想からは何も生まれない。
 そして冬休み──期間は二週間。夏休みの半分ほどと考えれば長くも感じるが、これが不思議なもので、体感二日、三日程度の休みに感じてしまう。
 年末年始に家族行事が多々あるからなのか、登校時よりも疲労がよく溜まる。
 試験前の不安と試験後の安堵。
 休み前の高揚感と休み明けの倦怠感。
 アンビバレントを辞書で見つけた時、真っ先に思い付いた事例がこの二つだった。矛盾にも似たその言葉は、案外世の中に溢れているのだと、俺は思った。
 冬休みも終わり三学期──卒業シーズンということもあり、学校が少し慌ただしい。だか、卒業式に参列するのは二年生以上なので、一年生に回ってくる仕事は何もない。
 ……と、言いたいのだが、今年卒業する生徒の中に、俺の姉貴がいる。
 しかも、姉貴が卒業生代表としてスピーチまですることとなった。
 俺は両親に連れられ、卒業式に参列した。姉弟までもが参列する意味が果たしてあるのかはだはだ疑問は残るが、まぁ門出くらい手放しで祝ってあげられるのも、また姉弟だけのようにも思う。
 卒業式も無事(姉貴がスピーチでいろいろやらかしたことは割愛)終わり、残り数日となった三学期。終業式の日に通知表を受け取り、母さんには見せられないな、なんて事を考えている中、担任の先生から放たれた言葉で我に帰る。
 春休み前の浮かれたクラスメイトを黙らせるには十分すぎるほど、衝撃的なものだった。
 だが、坂下は至って冷静で──もしかしたら、こうなることを予期していたのかもしれない。あいつを一番に気にかけていた坂下からすれば、この事実は到底受け入れられるものではない。それでも、ため息の一つも吐かずに押し黙る坂下は、今まで見たどの姿よりも、背筋に冷たいものを感じた──あの日の夜と似た感覚。
 冷え込む寒さの中、あいつと話した他愛のない会話を思い出す。二人の沈んでいく気持ちを馬鹿にするように、月が煌々と俺たちを照らしていた。
 もう二度と、月が綺麗だとは感じられないだろう。
 
 中原はこの三月をもって──転校することになった。

3/3に続く……

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?