【小説】意図ある告白【3】3/3

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 教室の窓から「もう一本!」という張り上げる声が聞こえた。野球部のものと思われるその声は、次の日には使い物にならなくなるほどに、ひときわ大きい声だった。
 夏の日差しが教室を温める。さすがは進学校、部室一つ一つにも冷暖房は設備されているが、この場の誰もが、熱さなんて感じていない。汗の一粒すら、額に流れることはなく、重苦しい空気だけが流れている。
 俺の話は聞き終えた清水は、感想の一つも言わず、じっと机を見つめていた。こちらからアクションを起こすべなのかとも思うが、雰囲気的に思案している様子だ。
 俺のできることはすべてした。なら、後は待つのみ。
 喉に少し違和感を覚え、水を一口飲み、喉を潤す。張り上げたわけでもないのに、もう疲弊している。如何にこれまで声帯を甘やかして生きていたのかが露呈してしまった。
「それから──」
 清水はやっと──本当にやっとと言う感じに、俺の話を聞いていたのかどうか、初めにしていたような相槌もなくなり、壁に向かって喋っていると錯覚してしまうくらいに静観していた清水が、声は発した。
「──お二人はどうなさったんですか?」
「中原の転校をきっかけに、また一悶着あったかが知りたいのか?」
「いえ、少なくとも中原さん関係で、これ以上滝野さんと四葉さんが衝突することはなかったと思います。当事者の居ない議論ほど、滑稽なものもありませんからね」
 議論の結果、中原は転校した。俺たちの議論の内容によって、転校の有無が翻るわけはないことくらい、俺も坂下もわかっている。家庭の問題にまでこの話を派生させる気は毛頭ない。
 でも、クラスの問題と言う点だけ見た時、俺たちの議論は全くと言っていいほどに滑稽だった。救済を正しいと思う坂下と、何もしないことが正しいと思う俺。そのどちらも、不正解に終わった。
 パフォーマンスだけじゃ人は救えない。言いたいことを、事実を突きつけるだけじゃ何も変わらない。
 言われなくても、本人が一番痛感していることなのだから。
「お互いを結ぶ要因であった存在が居なくなった後、お二人に変化は起こりましたか?」
「俺は相も変わらず不肖な生活を送っていたよ。まぁ、自分の事は自分が一番よくわかっているなんて言葉は、よくわかってないことの裏返し何だろうけどな。他人にどう映っていたかまでは俺の感知できることじゃない。それで言うと、坂下は目に見えて荒れていたな」
「四葉さんが荒れていた……想像できませんが、具体的にはどのように?」
「ああ。荒れに荒れていた。少しの不具合も許さないって感じで、神経質なまでに事の精査を行っていたよ。そんな坂下に、クラスメイトから不満が出なかった訳じゃない。『なんだとこのくらい』『誰に迷惑かけてるわけじゃないだろ』なんて文句が聞こえていた」
 今にして思えば、坂下の暴走は、一種の予防みたいなものだったのだろう──中原のような事例を、事件を、事故を、同じ過ちを犯さぬように……。
「まぁ、こんな悲惨を体験してしまったのなら尚更、二次災害は何としても防ぎたいと思いますよね」
「杞憂も危惧も、防衛機制だと考えれば責めることはできないからな」
 不安要素の排除は精神安定剤だ。
 まぁ、用法用量は守った方いいが。
「そんな自暴自棄と言うか、自傷行為自体は長引かなかったな。大体二学期くらいだったか? 大人しくなったのは」
「二学期と言いますと、夏休み明けですかね。何かあったのでしょうか?」
「さぁな。それでも坂下は坂下だ──言うことはちゃんと言う。でも、言わなくてもいいことは言わなくなった」
「滝野さんに対しても?」
「そうだ」
 今に近くなったってことですね。確認するように清水はそう言った。
「で、聞きたいことは以上か?」
「そうですね……」
 清水は少し考えてから。
「ではもう一つ、聞きたいことがあるのですが、よろしいですか?」
「ああ、何でも聞いてくれ」
「それでは」
 清水は姿勢を正す。
 それにつられ、自然と俺の背筋も伸びる。
「滝野さんは、中原さんがいじめに遭っていたことを──本当はご存じだったのではありませんか?」
 はは……。急所を一刺しだな。
「……何故そう思う」
「理由はいろいろあります。一つずつ話していきましょう」
 いろいろ、ね。聡明な清水は一体、どこまでわかってしまったのだろうか。
「まずは時系列の調節からですね。中原さんの異変に気がついたのは入学式から半年以上が経過した紅葉の季節、と言っていましたが、それは合唱コンクールの練習が始まった頃と捉えてよろしいですか?」
「そうだ」
「ありがとうございます。中原さんの異変に滝野さんは気がついた。では、その異変とは一体何だったのか。抽象的でよくわかりませんね~。なら、具体的な状態を付与しましょう。滝野さんなら、どんな状態に陥っている中原さんに、異変を感じますか?」
「それをこれから説明してくれるんじゃないのか」
「まぁ、そうなんですが……。滝野さんの口から仰ってくれれば、幾分か話が早いと思いましたが、簡単には行きませんね」
 そう言ってはいるが、顔をいつもにも増して生き生きとしている。
 探偵に苛立つ依頼人の気持ちが少し理解できた。今回は、勝手に首を突っ込んで来るタイプの探偵だが。
「異変──それも見ただけでわかるような異変だとすれば自ずと選択肢は絞られます。きっと、体の目立つ箇所に痕跡があったのでしょう。例えば──顔、とか」
 顔──ピンポイントに言い当ててくる。その場にいたかのように。
 俺が何も言わないことを察し、畳みかける。
「滝野さんは一度、教室で中原さんに声をかけましたね。その時かけた言葉は──何だそれは、何だその顔は、です。私はてっきり中原さんの一瞥に憤慨なさったのだと思いました。ですが、違いますね」
「それだけで顔に痕跡があったとは言えないんじゃないのか?」
 清水に水を向けるくらいしか、今の俺にできることはない。
「はい、これだけでは足りません。滝野さんの視点だけじゃなく、中原さんの視点からも考えてみましょう」
 俺にはわからないあいつを、清水ならどう読み取るのか……。
「まず一つ目──教室で中原さんは滝野さんに、何も気に病む必要はないと言いました。いつもと変わらないはずの中原さんに対して、滝野さんは一体何に気を病むことがあったのでしょう?」
 さっきから俺への問いかけが多い。普段の清水なら言いたいことをのべつ幕無し、それこそ中原同様立て板に水の如く話すはずのこいつが、今回は少しテンポが悪い。
 迂遠な言い方はいつものことだが、濁すのはこれが初めてだ。
 俺は清水を黙って見つめる。清水は少し呆れたような表情で、
「如何に内面を悟らせない中原さんと言えど、外見ばかりは隠しおおせないでしょね──例えば顔に傷があったり、もしくは傷の治療中だったり」
 と、教室での出来事を言語化がする。
「では二つ目──今度は自宅前の会話から。滝野さんが中原さんに、どうして自分を避けていたかを聞きました。その時、中原さんははっきり言っていましたよね──合わせる顔がなかったと。もっと言えばその後、自分が女の子であることを再認識させる言動から、繊細であることまでを一括りに考えれば、答えはでます」
 中原は女子として、比喩ではなくただ単純に──傷ついた顔を見られたくなかった。
「ここまでが、中原さん自身に起きた異変です。何か質問、もしくは修正点などありますか?」
「いや、問題ない……続けてくれ」
 そうですか。そう呟き、清水はお茶を一口含む。
 解決編の探偵よろしく、その仕草には余裕が感じられた。探偵は探偵でも、安楽椅子探偵だな、これは。まぁ、題材が俺の過去では物足りないだろう。
「次に考えるのは、中原さんを襲った異変です。言うまでもありませんが一応、滝野さんが中原さんの異変に気がついていたという事は、四葉さんも同様に、中原さんの変化に気がついていたはずです」
 本当に言うまでもない事を言ったな。
 誰よりも目を光らせていた坂下が、気づかないわけがない。
「中原さんはいじめに遭っていた。でも、顔の傷だけではいじめと結びつけることはまだできません──ただ単に、怪我をしただけかもしれませんよね。つまり、顔の傷は結果であったとい訳です」
「あの出来事以前から、俺と坂下はいじめに気づいていたって言いたいんだな」
「そうです。なので、外的要因ではない、いじめと結びつけられるような何かがそこにはあったんだと思います。ですが、正直こればかりは私にはわかりません。中原さんを直接見たことがない私には……。でも、お二人には感じ取ることができた」
 異変や変化なんて抽象的なものではない。俺にしてみても、坂下にしてみてもはっきりわかることだ。顔に傷ができる前から中原は俺に話しかけてこなくなった。これほどわかりやすい異変を、いくら俺でも見逃すはずがない。はっきり言って異常だと思った。それと同時に中原は──非常事態なんだとも思った。
「これについては一旦置いておくとして、いつどこでいじめが行われていたかを考えましょう。まず考えられるのは教室です。私たち学生にとって、利用時間が一番長いのは間違いなく教室ですよね。でも、利用時間が一番長いからこそ、教室は一番ありえない場所とも言えます」
「よくわからんな」
「他のクラスでなら、教室が間違いなく第一候補です。ですが、滝野さんのクラスには四葉さんがいますからね」
「なんだか坂下が捕食者みただな」
「捕食者と言う意味では、教室は四葉さんのテリトリーですからね。もしも教室でそのような行為が行われていたとすればきっと、四葉さんがあっさり解決できていたことでしょう」
「坂下だって四六時中、教室にいるわけじゃないだろ──その時を狙ったのかもしれない」
「その場合、クラス全体がいじめに関与していたことになります。仮にそうだとしても、四葉さんではなく滝野さんが気づきますよね」
「どういうことだ?」
「昼休みや放課後になればすぐ滝野さんの席にやってくる──中原さんとはそういう方でしたよね。逆に言えば、滝野さんは昼休みの教室にいつもいたことになります。滝野さんもグルでない限り、クラス全体でのいじめは考えられません。目の前でいじめに遭っていて、それを止めない滝野さんではないでしょう。つまり教室は、四葉さんのテリトリーでもあり、滝野さんのテリトリーでもあるわけです」
 止めない俺ではないって、そんな脅迫めいた言い回しがあるか。
「次に考えられるのが放課後です。私としては、教室同様放課後も除外されるとは思っています。……でも、残念ながら完全に候補から外せるだけの推論がありません。お二人だって、放課後まで関与しきれなかったことでしょう」
「……心理的側面から考えれば、放課後は除外されるかもな」
「と、言いますと」
「誰に見られてもおかしくないそんな時間帯に、わざわざいじめる必要はない。坂下だけに注意すればいいのであれば、放課後も候補に入るが、一番に警戒しなくちゃいけない存在は──教師だろ」
「なるほど、それは盲点でした」
 白々しい奴だ……。
「これで無事、放課後も候補から消せましたね」
 清水には既に答えが導き出せているのだろう。
 それを確定するための背理法──候補を一つずつ消していく。
「教室と放課後が削除され、残す可能性は一つ──授業です」
「それも、音楽の授業だな」
「ええ、そうですね」
 合唱コンクールの練習があの時期行われていた。最初に全体練習、その後パート練習、最後にまた全体練習。大体いつもこの流れだ。
「合唱コンクールのパート練習が、滝野さんからも四葉さんも、そして──教師からも隔離された時間だった」
 俺はテノール、坂下はアルト、そして中原はソプラノ──皆別々のパートを担当していた。パート練習の時間だけは、いくら坂下でも関与できない。
「厳密には、サボっていないかの見回りはあった。でも、大した時間じゃなかったな」
「はい。パートが均等に分けられていたのであれば、一つのパートに十人ほどの人数がいたと考えられます」
「俺のクラスは総勢三十人──内訳は男子が十六、女子が十四だ。女子に関して言えば、一つのパートに七人だな。その内の一人が中原だったから、あいつをいじめていたのは六人ってことになる」
「六人、妥当な人数ですね。ですが、六人が六人とも、同じ目的をもって中原さんをいじめていたとは思いません」
「俺もそう思うよ」
 中原の性格に難はあった。それでも、ある日を境に突然六人から攻撃を受けるようなことを、あいつがするとは思えない──あれであいつは臆病なんだから。
「きっと、主犯格の方がいて、その人を中心に事が行われていたのでしょう」
「一ついいか、音楽の授業を使っていじめが起きていた。なら、坂下にはこの問題を解決する術があったんじゃないのか?」
 パート練習の時間が使われていることさえわかれば、犯人を特定することは簡単だ──何せ、自分のパート以外のメンバーがそのまま犯人ってことになる。
 なぜ、坂下は犯人を突き止められなかったのか?
「それに関してはきっと、四葉さんは間違えてしまったのでしょうね。いえ、行動自体は間違えてはいなかった。ですが、昔の四葉さんは、自分の考えに少し拘泥するきらいがあったように思えます」
「なんだ、歯切れが悪いな」
「……多分、四葉さんは放課後にいじめが行われていると考えたのでしょう──その可能性も十分あり得たことです。だから、関与できないデットスペースすらも支柱に収めようと策を弄した──合唱コンクールの練習と言う口実を作り、一時的でも時間を作った」
 放課後練習を提唱したのは確かに坂下だった。三日間でも長いと悠長なことを考えていた自分が恥ずかしい。坂下はあの瞬間から、いや──実際にはもっと前から解決に乗り出していた。
 クラスの誰も、もちろん俺だって、坂下の意図には気づかなかった。
「今までの傾向から考えて、四葉さんは中原さんの問題を滝野さんに解決して欲しいと考えていた──個人的に話を聞くものの、最終的には毎回、滝野さんを訪れては説得していましたよね」
「説得というよりは説教に近いがな……。確かに、何かと理由を付けては俺に中原をどうにかしろ、的なことを言っていたな」
「だから四葉さんは、滝野さんが中原さんに声をかけた段階で、身を引いたんだと思います。四葉さんの言っていた、手遅れに近かった、というのは、中原さんの顔に異変が起きたことを指していたと考えればどうでしょう?」
「手遅れに近くとも、まだ間に合うはずだった救済を、俺は保身を第一に考え、行動し、中原さんのことを最後まで蔑ろにした。坂下が怒るのも無理ない」
「怒っていたのは怒っていたのでしょうね。でも──」
 清水の表情が和らいだ。
「──その対象が、滝野さんだけだったとは思いません」
「ん? 俺以外の奴? ああ、いじめっ子に対してってことだな。確かに許される──」
「いえ違います」
 清水が遮る。
「友達だったら救えたかもしれない……あれは、四葉さん自身に向けられた言葉だったんでしょうね」
「え? いや、でも、それはおかしくないか? お前が友達になればいいと言った時、坂下はビンタまでして拒絶したんだぞ」
 坂下は中原と友達になる気はないとわかった。
 だから、友達だったら救えたかもしれないなんて戯言だけは、看過できなかった。俺の数少ない矜持が、それだけは許さなかった。
「これも一種の拘泥ですが、どうしましょう」
 んん~。と、腕を組み唸っている。
「それについて私から説明してもよいか、わかりかねますね〜、んん~。四葉さんに悪いしな~、んん~。滝野さんを甘やかし過ぎるのもな~、んん~」
 ……なんだこいつ。坂下に悪い? それは陰口みたいになってしまうってことか?
 でもな~、ここまで話して今更気にするのもどうかと思うしな〜。
「まぁ、坂下さんを尊重しましょう。ここで私の口からとやかく言うのも、余計なお世話ですしね」
「じゃあ、俺は清水を尊重して、これ以上何も聞かないよ」
 仮に清水が話してくれても後の祭り──騒ぐ時間を終わったんだ。
「以上が、中原さんがいじめをいつどこで受けていたのか、そして、滝野さんがそれを認知されていたことへの証明です。どうですか? あっていますか?」
「まぁ大体そんな感じだ。俺の話からここまでの推論を組み立てられるお前は、やっぱりすごいよ……」
 改めてそう思った──こいつを敵に回したくないと。
「……お前の推測通り、あの日、中原の顔にカーゼが貼られていた。音楽の授業中に、あいつは姿を消した。正にパート練習終わりのタイミングでだ。そして、教室に戻ると、ガーゼを張ったあいつが、いつも通り、ただいつも通り、普段からカーゼを着用しているみたいなそんな雰囲気で、誰に何を言うわけでなく、それが与えられた仕事のように、自分の席に座っていた」
 この異様な光景は、クラスメイトの視線を集めるには十分過ぎた。そして、坂下はこの瞬間、いじめは放課後ではなく授業中に行われていたと気づいたんだろう。
「その時声をかけなかったのはどうしてですか?」
「坂下の言葉を借りるなら、自分が可愛かったんだよ──今まで手を差し伸べなかった俺が、どの面下げて話しかけるんだ? それでも、教室を去ろうとするあいつに思わず声をかけてしまったのは──」
 もしかしたら、理由は何でもよかったのかもしれない。
 踏み出した足が右足だったから。
 音を鳴らして椅子を戻したから。
 咳払いをしたから。
 何だっていい。
 でも、あの時の理由は単純明快。
「──転校当日、あいつに話しかけた男子にしてた目を、俺に向けたんだ」
 怒りでも哀れみでも責めるでもない──あったのは無、それだけ。
「感受性は高いが感情移入はできない──相手の置かれている状況は理解できても、一歩踏み出す勇気が俺にはない。そんな俺をあいつは責めていたのに、それにすら気づけなかった」
 ふふ。清水が笑う。
「滝野さんは言葉の裏を見ようとするあまり、何も見えなくなっていますよ。素直に受け取ればいいんです」
「素直に?」
「はい。……ふふ、なんだか私と中原さんは、どこか似ている気がします。いつかあってみたいものですね~。その時はきっと──いい友達になれます」
 四葉さんがどうして私と友達になったのかがわかりました。と、小声で呟く。俺がそれに反応する前に。
「感受性は高いが感情移入はできない──相手の気持ちがわかってしまうからこそ、身動きが取れなくなってしまうのです。軽率な行動がどれだけ相手と自分を苦しめるのかを、滝野さんは知っている。そんな滝野さんを、中原さんはなんとも迂遠な言い方ではありますが、励ましていたんですね」
「……はは。そうだといいな。ありがとう……、何だか少し、救われた気分だ」
 中原の本心は今となっては知る由もないが、清水の言葉を真と捉えよう──そう、正当化しておこう。
 どういたしまして。清水の優しい言葉にさっきまでの緊張が和らぐ。
 キーンコーンカーンコーン。計ったように下校時間を告げるチャイムが鳴った。
 ふと机を見ると、俺が文芸部員三人で食べるようにと持ってきた饅頭が一つ残っている。
 頭を使い、少々小腹も空いていた。手を伸ばし、饅頭を取ろうとしたが、清水はそれよりも早く残りの饅頭を取り、そのまま口の中に放り込んだ。明らかに俺が手を伸ばしたのを見てからの行動だ。
 むしゃむしゃとリスのように頬張る姿は清水らしからぬ残念なものに映るが、まぁここまで美味しそうに食べる奴からは奪えないよな。
「……、んん。滝野さんは既に一つ食べましたよね?」
「饅頭の対価に物語を聞かせただろ」
「はい。ですから一つ食べられたのでしょ」
「……もしかして、饅頭一つにつき、一物語なのか?」
「何か問題でも?」
「饅頭二つ分の価値はあったように思うが」
「世の中そんなに甘くありませんよ。このお饅頭だって甘さ控えめに作られています。だからこそ、何個でも食べられるんですね。物足りないくらいが丁度いい──甘過ぎては体に毒ですしね」
 ニコッと笑いながら言う。ニコッじゃないんだよ、まったく。
「太ってもしらんぞ」
「この程度じゃ太りませんよ。……多分きっと」
 饅頭に中毒性がなければいいが。
 帰りの支度を済ませ、部室から出る。職員室に部室のカギを返し、廊下を進み下駄箱まで歩く。
 前にも下校時間ギリギリまで清水を拘束してしまったことがあったが、今回は清水自ら言いだしたことだ。それでも男としてやはり、家の近くまで送り届けるべきなのだろうか。
「今日はありがとうございました。あ、今回も別に家の近くまで送ってもらう必要はありません。今日に関しては言えば、完全に私のわがままですからね」
「ならお言葉に甘えて。気をつけて帰れよ」
「滝野さんもお気をつけて」
 正門での別れ際、ふと気になったことがあった。
「清水、最後に一ついいか?」
「はい? 何でしょう」
「呼び止めてまで聞くことでもないが、清水にとって大人になる条件ってなんだと思う?」
 俺は依存で、中原は安定だった。では、清水は一体何というのか。中原と似て非なる存在の清水は、どんな回答をしてくれるのか。
 清水は逡巡することなく言った。
「誰にも何にも──期待しなくなったら、ですかね」


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