見出し画像

作品論


創作を生きがいとする女子大生バンドマン熊王ナナ子です。
誰かへ向けた文章になるのか、はたまた自分の思考整理の為の文章になるのか分からないけど、今日は私の"ものづくり"に対する考え方を書きたいと思う。


創作は最下階層の欲求

まず、創作は生きがいと冒頭に言ったけれど、生きがいという言い方がしっくり来ない。生きがいというよりも私にとっては生み出す行為は必然であると思う。マズローの欲求階層で言うと下に近い。生理的な欲求に近いところがあると思っている。

それは根底に極論何も生み出していない自分は無価値だという考えがあるからで、それは美味しいご飯を食べても、友達と話しても、恋をしても決して満たされることがないところだ。睡眠は睡眠でしか満たされない様に、私の逼迫した創作意欲(意欲と言っていいのか)は年中付き纏う。手を止め過ぎると死んでしまう。いや違う、死んでしまいたくなるのだ。


自分を切り分ける感覚

何か用意立てて世に放つとき、毎度私の頭に浮かぶイメージがある。それは私の身体を一部切り取って人々に配る映像だ。(ん?アンパ●マンか??)曲にしても何にしても0から1をポンと生み出した感覚よりも、自分をの中から絞り出して或いは自分を千切って送り出す感覚の方が強い。だから、作品は全て私の分身の様に思う。作り続けていれば私はすり減る、そうしたらまた新しいものに触れてインプットを増やす。これは模倣ではない。食事と排泄に近いと思うな。


自撮りも創作

自分を人々へ配るイメージから気づいたことがある。満たされない創作欲を少しでも和らげるためには、何も音楽や絵、造形物に拘り過ぎなくても良いと。これは最近思い改めたところだ。かつては「音楽家たるもの見た目を売ったりしてはいけない」と前時代的で頑固な考えを持っていた。
どうせ自分を削って売るなら、自分の見た目や動いているところ、話す内容書く言葉全て自らから生まれた創作物だと考えることにした。つまり、自撮りやYouTubeに投稿する動画、こうして書いている文章を、曲や絵と同列(とまでは言いにくいが)くらいの認識とすることにした。こんなこと言ったらプロの人に怒られてしまいそうだけれど、私は大真面目にこんなことを毎日考えているのだ。


打算的な芸術家?

このように何かを作ることに対してかなり考え込んでしまう私は表に立つに相応しくないのではないか?芸術家にしては打算的過ぎるのではないか?と悩むこともある。こんなことをしたらこんなレスポンスが来るかなと考えてしまうのだ。しかしプロと言うには極めたものがなくてスッキリしない。

だから今は、私の身体ひとつで出来ることはなんでもやろうと思うのだ。


現在ミスiD2021に応募中です。
良ければ併せて私の持つコンテンツも見ていってください。

YouTube

Twitter

曲(バンドMV)

自撮り用Instagram

CHEERZ

良かったらサポートよろしくお願いします!いただいたサポートは私の活動費用に当てさせていただきます!