「幸福」を憧れるのをやめましょう

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感動したいと思ったら、”人気の感動映画”を観れば感動して涙を流すことが簡単にできます。性欲が溜まればポルノを見て一瞬で快楽を満たす事ができ、腹が減ればコンビニで何か買えば良いわけで、要するに便利な世の中ですね〜

でも実際のところ、世の中が便利になってもあまり幸福感が増えたようには考えられません。むしろ減ったんじゃないでしょうか。

近年、多くの人が感動できる映画よりも、自分にしか分からないかもしれない良さのある映画を大切にすることが減ってしまったような気がします。
確かに感動できるものを作れれば金にもなりますし、我々も涙を拭いて満足げになれますが、よくよく考えればこれは非常にアホらしい事です。
要するに”感動のツボ”を抑えられているようなもので、そこを皆同時に押されて目を潤わせているのは、大衆が機械化してしまっているように見えます。
普遍的に感動することを並べられ泣くのは、それはあまりにも「脳の反応」すぎて本当の意味でソレが面白いのかどうかはよくわかりませんが、にしても私たちは日々、感動や快楽などの効率よく摂取するボットと化してしまっています。

これは世の中が”正しくなりすぎてきてる”のが原因なのかもしれません。
正しくなるというのは、つまり概念を言葉にする事であって、それは文字通りの”情報化”が必要となってきます。なんでも言葉にしてしまう世の中です。
そして、いつの間にか ”経験”よりも”情報”としての価値が肥大化してしまい、なんだか近視的な行為(先述した"目先"の幸福追求みたいなの)に走ってしまっているような気がします。

というか、この現代の風潮はつき詰めると「快楽主義」で「幸福になった者勝ち」であり、つまり『脳汁出した者勝ち』な訳です。
少し考えればわかりますが、人生がそのゲームならば覚醒剤か何かを使い続けてオーバードーズでも笑って死ねば”最高の人生”が完成しちゃうわけです。
ですがこれは余りにも人間的ではない。幸福とは非常に脆い欠陥のある物なのかもしれません。あるいは、もっとも幸福とは割と地味なものなんじゃないか、と私は考えています。

もはや「幸福」についてそこまで憧れを持つのがきっと間違っています。
考えるだけ快楽主義の沼にハマるだけで本末転倒が関の山です。


そう言ったところでは現代では、むしろ無意味なことをしてホニャホニャ生きてる方がよっぽど人間として生きているような気がします。
あるいは、誰にでもわかるような感動のツボを押されるのは日常(当たり前)として考え、「自分以外誰が好きなのかよく分からない」ようなものをどんどん見つけ、そういうのを自分でも作ってみたりするのが大切なんじゃないでしょうか。

そのためには、すぐ言葉にしようとしすぎない、ジャンクになりすぎない、環境に依存しない、正論・幸福にとらわれない、そこら辺が大事なんだと思います。
嫌でも言葉にしてしまう、させられちゃうような世の中なので、ある程度言語化しないへぼさと、それでも感性を育み続ける反骨心を持って生きましょう。


できるだけ鋭い目で何も見ない

想像上のスピード - Kabanagu



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