【随筆】Inscryption(孤独なアルファ)に見る、ソロ・ゲームとはなんぞやということ。

 「ソロ・ゲーム」というものがある。

 ゲームを学問的に見るタイプのクラスタ(陰キャ100%)界隈では、何故かこれらを分けずに(または暗黙にソロゲームだけをゲームとして)語られる傾向にあるが、実際はほぼ現代においてマルチ・ゲームとソロ・ゲーム、もっといえば、2人対戦か、3人以上の対戦かも結構違う種類の「ゲーム」だ。

 実はソロ・ゲームはゲームとしては歴史は浅い。
 そんなわけで歴史が浅いためにすぐに映像とかストーリーを(ゲームでも浅いのに、それ以外になれば浅瀬でチャプチャプしてるレベルの門外漢のたかがゲーム好きに)語られがちだ。語ってる人間が友達のいない(からマルチゲームが出来ない)バカというのもあるが。

 しかして、このソロ・ゲームも実はまた対戦ゲームであることは余り知られていない。それは作者とプレイヤーの対戦である。これに自覚的だったのが、Inscryptionを上梓したDaniel Mullins Gamesである。
 本作は作者による三作目で、これまでも「Pony Island」「The Hex」…どのゲームでも一貫してソロ・ゲームでいかにプレイヤーと対戦するかを模索していた。

 作者との対戦とはなんなのか?
 つまりそれは、スーパーマリオブラザーズでいうところのジャンプ(もちろん”炎の花”による火炎発射能力や”星の力”による無敵能力もあるが…)のみを武器に、右端にたどりつくという設定されたルールであり、どんなゲームをもってしてもつまり「設定されたルール」との闘いだ。
 どれだけ自然的なゲームをしても、ルールの設定は必ずされている。カメを殴って黙らせることはマリオにはできない。キノコ王国がカメ王国に宣戦布告し、ピーチの救助の後で核での報復を持ってこの戦争を終わらせることはできない。それがルールの中でしか動けないゲームだからだ。

 そうしてルールで作成された世界にプレイヤーが縛られる、というモチーフについて何が一番近いのか、と考えたところDaniel Mullinsは悪魔を持ち出した。悪魔はよくいうでしょう、「夜までにここから見える山の木をすべて薪にしろ」だとか「王子の愛を受けなければ泡になる」だとか。概ね伝承の悪魔たちは自分から直接手を出さず、ルールの設定によって魂が捕らわれるように運ぶ。つまりルールの作成とは悪魔の所業に他ならない。そうでなければ、そもそもゲームなど作る意味などない。

 いわばこれはリアリティだ。突然設定された「右へ進め」というルールに対して、なんで従わなければいけないのか。翻せないのか。マニュアル・ダイアローグ・ストーリー…理由を補足されるゲームはあっても、そんなものは子供だましでしかないではないか。
 そこに、悪魔があらわれる。悪魔がその魂を捉えるために用意したルールこそが、デジタルゲームというわけだ。今の時代、悪魔だってわざわざ「夕方までに池の水を干せ」や「キジバトの卵を三つ持ってこい」などという無理難題や願いを叶えるなどの対価を持ち出す必要はない。人間が作るゲームのルールのほうが優れた魂キャプチャ能力があるのは間違いないからだ。
 つまり悪魔は、無理難題の外注化をした。囚われた魂がルールに則ってプレイさせられるというデジタル・ゲーム…という解釈だ。

 もしくはゲームだけではなく現代社会というものは、大きな存在によって規定されたルールでプレイさせられることを義務付けられている。現実的な話でもある。

 賭博黙示録カイジの第一部「限定じゃんけん」が売れた理由でもあろう。もしも最初からシステムに用意された前提のないゲームだったらこんなもの全く面白くはない。そうじゃなくて、裏にあくどい金持ち(つまり悪魔である)がいて、それらがルールを元に争わせている。そこにはやっていいことと、やってはいけないことがある。これは現実のカリカチュアライズであり、非常にわかりやすく描かれた人生の縮図でもあろう。
 だがこの漫画は伝える。悪魔に勝つためには、ただルールに沿ってカードを出しているだけではだめなのだ。

 そう、リアルなゲームに勝つためにはカードをただ出しているだけではだめだ。

 Inscryptionはカードゲームだ。しかし、カードゲームという時点で作ったものがいて、その運営をしているものがいる。それを自覚しなければいけない。ただのお前を楽しませるだけのゲームなどこの世にはないのだ。
 ルールを破らないで、それでも勝つ見込みのないゲームに勝利しなければならない。それが人生だ。
 そしてこれこそがソロ・ゲームだ。本作ではゲームに囚われずにルールで作られた仕組みに打ち勝つ必要がある。

 これは、現実と地続きである存在としてのゲームを考え抜き、ソロ・ゲームが持つ構造に自覚的だからこそ、生まれたゲームと言えよう。


……

 だが、まさかこの形式がDaniel Mullinsの生み出した独自のものだと思っていないだろうな?
 それは、違う。この形式には既に先駆者がいる。

 そのゲームこそ、ステッパーズストップ「孤独なアルファ」だ。
http://stst.cocot.jp/mygame/store2009.html

 孤独なアルファは、Inscryptionとまったく同じ構造を取っている。ゲームによって主人公=プレイヤーを捕えなくてはいけない存在との対決だ。孤独なアルファの作者ポーンもまた、このソロ・ゲームである理由、構造を何作にも渡って思索し続けている。出発点が同じなのだ。

 被操作主体の主人公=プレイヤーのようなプリミティブなゲームではない場合、そもそも何故「ゲーム」に参加しなければならないのか。
 小説でも映画でもなく、ゲームで作られた理由は必要になってくる。

 そこに対して、ある種の回答に近いのがこれら作品であろう。

 奇しくも、相対する敵となるのが似た存在であることは偶然ではなかろう。
 ゲームとは、そしてルールとは呪術的で、悪魔的、そしてプレイヤーは常にそれに相対「させられる」存在であるというのは間違いない。

 クリアできなかったゲーム、積んだゲームを見てため息をつく君たち、君たちがその過程で悪魔に囚われていないとするなら、今度はその今も囚われていない魂の証明が必要となる番かもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?