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「運命の人」(2982文字)

 依子との出会いは、決して運命的なわけではなかった。典型的でいかにもありきたりな出会いの場であり、もはや参加することが意義になっていた合コンが五十八回目を数えた日。ずらりと並んだ六人組の、向かって右から二番目に座っていたのが、依子だった。

 依子は証券会社に勤める二歳年下のOLで、目を引くような華美さはないけれど、笑うと右頬にだけえくぼの浮かぶ、かわいらしい女性だった。おとなしそうな雰囲気のわりにころころとよく笑い、合コンなんて席にあっても、陳列されている男を値踏みするような目を一切しなかった。優しく朗らかで、健全な空気を全身に纏っている。依子と話していると、年齢イコール彼女ナシ歴記録の更新中であった僕も、自然とただの僕でいられた。
 合コンの日からお互い好印象だったのもあって、連絡先を聞いてからの経過はまさにトントン拍子だった。今までなら三日ほどで途切れていたメッセージのやりとりも昼夜をとわず毎日続き、一週間後にはデートの約束も取りつけた。三回目のデートで告白をしたときも、フラれるかもなんて恐怖は全然なくて、ただ彼女に想いを伝えたい気持ちでいっぱいだった。僕の言葉に依子は頷いてくれて、その夜、依子は僕の彼女になった。
 運命の人には出会えばわかる、なんて、どこかで聞いたうら寒い文句を間違っていないと思えるほど、僕の人生に依子はぴったりとはまっていた。こんなに自然に成りゆくことが、どうして今までできなかったのかと不思議に思ったりもしたけれど、依子が特別なんだということは自分でもよくわかっていた。結婚したい。依子と夫婦になりたい。月日が過ぎるにつれ、その気持ちは強く確かになっていった。

 依子のお兄さんと鉢合わせたのは、付き合い初めて一年が経ったころだった。デート帰りに実家住まいの彼女を送っていたとき、家の近くで偶然出会したのだ。僕はTシャツにジーンズなんてラフな格好で、当然菓子折りのひとつも持っていなかったから、初めて会うお兄さんを前に完全に硬直してしまった。顔にはかろうじて笑顔を貼りつけて、真っ白な頭でお兄さんに気に入られる方法を考えているうちに、気がつくと、彼女の家へとお邪魔することが決まっていた。
「自分の家だと思ってくつろいで」
 招かれた居間のテーブルで、いつものようににこやかな表情を浮かべる依子。隣でガチガチになって正座をする僕の向かいには、険しい顔で岩のように微動だにしないお兄さんが座る。張り詰めすぎた空気は膨張し、ちくちくと容赦なく肌を撫でていく。
「私、お茶を淹れてくるね」
 腰を浮かせた依子の朗らかな声を合図に、テーブルに着いてから均衡を保っていた三角形が崩れ、お兄さんと僕を繋ぐ頼りない一辺だけが残される。扉を挟んで奥まったところにあるらしい台所へと依子が吸い込まれると、僕はお兄さんの厳めしい表情に真っ向からさらされた。
「……あいつとは、長いのか」
「は、はい! いえ、ええと。そろそろ、一年になります」
 長いのか短いのかよくわからない年数にしどろもどろになりつつ、なんとか言葉を絞り出す。お兄さんは挙動のおかしな僕を特に気にしたふうもなく、「そうか」とわずかに頷いた。落ち着きなく視線をさまよわせる僕とは対照的に、お兄さんは僕との間にあるテーブルの真ん中辺りに、じっと視線を落としていた。
「うちの親がいないことは、依子から聞いているか?」
「はい、早くに亡くされたと……」
「そう。だから、今あいつの家族は俺だけなんだ。いろいろあるが、あいつはいい子だ」
「はい、それはもう。僕にはもったいない人です」
 お兄さんの言葉に、力強く頷く。依子の魅力なら僕もよく知っている。これほど素晴らしい人には巡り合ったことがないと、胸を張って言える。僕は小さく深呼吸をすると、覚悟を決めて口を開いた。
「まだ依子さんには言っていないのですが、結婚、したいと思っています」
 ほんの少し見開いたお兄さんの目の奥で、なにかがゆらりと揺れる。それが不快なのか好感なのか僕にはわからなかったけれど、僕はじっとお兄さんの瞳を見つめ続けた。
「覚悟はあるのか」
「あります」
 僕の返答に、お兄さんは一瞬目を伏せてから、ゆっくりと顔を上げた。射るような血走った目が、少しも逸れることなく僕を貫く。 
「……あいつのこと、絶対泣かせるんじゃねえぞ」
「絶対に泣かせません。命にかけて、誓います」
 一歩も引かず、お兄さんに負けない勢いで一言一言きっぱりと言うと、お兄さんは神妙な表情で何度も頷いて、「妹をよろしく頼む」と肩を叩いてくれた。その言葉に僕の方が目頭が熱くなってしまい、お兄さんに「先が思いやられるな」と笑われてしまった。
 帰る前、ぜひにと挨拶をさせてもらった仏壇のご両親の写真は思っていたよりも随分と若くて、僕はお兄さんに約束したことをもう一度強く、ご両親の仏前へと誓った。

 彼女の唯一の家族にも認めてもらえたおかげか、僕の秘密のプロポーズ大作戦は弾みをつけて進行し、ついに運命の日がやってきた。といっても派手なことは好まない依子だから、フラッシュモブだとかお店のお祝いだとか、そういうパンチのあるものではない。僕と依子二人だけの、慎ましいサプライズだ。
 僕は依子を招き入れると、あらかじめ下準備をしておいたディナーをテーブルへ並べた。狙い通りいい雰囲気で食事を終え、隠しておいたアレンジメントフラワーを取り出す。恋人への贈り物には不向きな色だけど、依子が好きな薄黄の花を寄せたオーダーメイドで、真ん中では、小さなピンクのテディベアが指輪を抱えて微笑んでいる。控えめだけど、ちゃんとダイヤのついた指輪だ。テディベアに気がついた依子は、「やだ、どうしよう」と焦ったように首を振りながら、目にいっぱいの涙を溜めていた。僕は熱くなる胸を抑えつつ、依子の前にかがみ込んで彼女の両手をとった。
「依子。僕と、家族になってくれませんか」
 覗き込むようにして言うと、かろうじて留まっていた涙が、依子の目からぽろぽろとこぼれ落ちて、僕の頬を流れた。
「どうしよう……。私、本当に泣くつもりなんてなかったのに」
 次々と落涙する依子に、僕の目がかっと熱くなる。そのままどんどん熱くなっていく目に、自分でプロポーズしておいて泣くなんて、と思いかけて、僕は異変に気がついた。これはもらい泣きでも感動でもない、生理的な涙だ。けれどそのときにはもう、喉はヒューヒューと掠れた音をたてることしかできなくなっていた。
 どさり、と重い音がして、視界が一気に低くなる。急速に弱まっていく聴力の中で、自分の膝が、身体が、順に床へ崩れ落ちていく音がやけに遠くに聞こえる。ヒュッとわずかな音をたてて吸い込んだ息は、外へ吐き出すことも叶わない。目からあふれる涙は、横倒しになった身体と同様に、重力に従って床へと伝っていく。ほぼ失った視界では依子が泣き崩れていて、依子の頬を涙が伝う度、気管が締めつけられた。

『あいつのこと、絶対泣かせるんじゃねえぞ』

 そう言ったお兄さんの射るような目が、もう見えなくなった視界の闇に、閃光のように迸る。
 そうか、あれは、そういう意味だったのか。
「ごめん……大好き、大好きよ」
 意識を手放した僕の頭の中では、もう聞こえないはずの彼女の愛の言葉が、延々と反響し続けていた。


(了)

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