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「シアター山谷」(4411文字)

 新聞を取りにアパートの玄関へ下りると、きれいな黄緑色の封筒が郵便受けに入っていた。「シアター」の文字が見えたので劇団宛てかと思ったが、宛名は俺個人だ。そもそも、劇団の代表住所はうちじゃないことに、今さらながら思い至る。
 中には、三つ折りになったカラー刷りのチラシが一枚入っていた。「シアター山谷やまたに」。聞いたことのない劇場だ。
 アクセスの欄に載っている簡易地図からすると、ここから2ブロックほどの場所にあるようだ。こんな住宅街に新しい劇場ができるなんて、聞いた覚えがない。主宰もなにも言っていなかったが、まだあまり知られていないのだろうか。
 チラシによると、こけら落とし公演が三日後にあるらしい。客を呼ぶ気があるのかないのか、演目の記載はなかった。
「新しい劇場、か」
 劇作家になって十数年。厳しい業界だし、小さなハコは閉まる一方だ。まっさらな新築の劇場なんて、そうそうお目にかかれるものでもない。
 まだ公演日でもないけど、近所だし外からちょっと見てみようか。
 よし、と誰にともなく小さくうなずいた俺は、サンダル履きのままアパートに背を向けた。


 くだんの劇場「シアター山谷」は、五分も経たず見つかった。けれど、その外観は想像とはずいぶんと違うものだった。
 新築らしからぬ古びたようすはどこかくたびれた雰囲気で、かといって情緒があるわけでもない。正直言って、そこはかとなく、ダサかった。
「中、見ていかれませんか?」
 ぎょっとして顔を向けると、劇場のドアの前に初老の男が立っていた。その顔には、涼やかな微笑みが浮かべられている。
 劇場とは真逆で、やたらと小綺麗な男だ。すっきりとしたラインのスリーピースを纏った背中はスッと伸び、白いシャツもまぶしくハリがある。さっぱりと整えられた髪型も柔和な表情もどこか雰囲気があって、古くさい劇場はおろか、住宅街にすらそぐわない、現実離れした不思議なオーラがあった。役をあてるなら名家の長子ちょうしか、チートレベル能力もちの執事か、いや、悪魔もありかもしれない。
「いかがです?」
「え?」
 死神もいいかもな――なんて、職業病のような考えに耽っていた俺は、男の声に意識を引き戻され、間抜けな声をもらした。いかがってなんのことだ、と尋ねる前に、辺りを見回して驚く。
 男に声をかけられたときは確かに外に立っていたのに、いつのまにか俺はシアターのエントランスを越え、ロビーの中ほどに立っていたのだ。わけがわからないまま男に軽く背を支えるようにして導かれ、あれよあれよというまにロビーを横切る。そう広くないロビーはあっというまに過ぎ行き、どっしりと重厚感のある扉の前へたどり着く。
 困惑を隠さないままに男へ視線を向けると、男は微笑み、両開きの扉をやわらかな手つきで押し開けた。
 ギギ、と小さくたわんだ音の向こうには、しんと静かな劇場が広がっていた。500席くらいあるだろうか。普段使っている小劇場よりずっと広い。こけら落とし前とあって、人の気配も染みついた活気の名残もない、まっさらな空気が満ちていた。
「いかがでしょう」
「あ、はあ」
 気の抜けた相づちをうつ俺に、男は左右対称に口角を上げ、にこりと微笑みを向けてくる。その作り物じみた笑顔がどこか人間離れして見えて、反射的にわずかに身体を引いた直後、ハッとした。劇場内に視線を巡らし、横目で男を盗み見る。
 そぐわない場所へ突然現れた劇場に、雰囲気たっぷりの怪しい謎の男。
 ――これって、典型的な「アレ」じゃないか?
 思い至って、ごくりと唾を飲む。
「シアター」は、人生と掛け合わせて用いられる定番のアイテムだ。演劇でも小説でもドラマでも、あらゆる創作で何度も観てきたし、俺自身も書いたことがある。あの世とこの世の狭間、走馬灯、登場人物が人生の終わりを受け入れる場面に使われがちな装置の、テッパン中のテッパン。
 ……俺、もしかして、死んだのか?
 でも、いつのまに? 今日の俺に、死ぬような瞬間なんてあっただろうか。
 朝は普通に起きて、飯を食った。郵便受けを見に行くまで外には出ていないから事故なんてことはないだろう。けれど、起きてからいままでに会話をした人間は、この男以外ひとりもいない。普段なら美佳がいるけど、今は出産のために実家だ。もしかして、寝ているうちに……そんな可能性がよぎって、サァっと頭の先から血の気が引いていった。
 心臓がバクバクと早鐘を打つ。これだけ心臓の拍動を感じるのに、死んでるなんてことがあるのか。こっそりと腕をつねってみれば、ちゃんと痛みが走る。けれど、俺は夢の中だって味覚も痛覚もあるタイプなのだ。少しも安心なんかできやしない。
 いまだ笑顔を崩さない男の足は、ぴったりと床に着いている。背中に羽や盛り上がりは見られないし、当然、頭の上に環なんかもない。
 観察していると、男はふいに一歩前へ歩み出て、くるりと俺へ向き直った。
「お気に召しましたか? あたたかみのある内装ですし、座席数もこの規模にしては多めでしょう? ステージも、こう見えて奥行きがあるんですよ」
 手練れの営業マンよろしくスラスラとプレゼンする男は、「登ってみます?」と俺の背に手を回してきた。途端、背筋に緊張が走る。
 板になんて上がってしまったら、いよいよなにかしらのステージにも上がってしまうんじゃないのか。終焉の幕が上がって、そのままあの世へ直行コースに決まってる!
「いえ、それには及びません」
 干からびた口から早口に言葉を絞り出すと、緊張を押し隠し、男と逆方向へスライドするようにして身をかわす。
「俺は劇作家なんです。ステージのことは、外から見るほうがよく見えるんですよ。むしろ、乗らないほうがよくわかるといいますか」
 早口のままもっともらしく言う俺に、男は仮面なのかと疑いたくなるほど変わらない笑顔で、「そうですか」と小さくうなずいてみせる。
「それでは、試しに少し観てみますか?」
 仕切り直しとばかりに男が言うのに、思わず、ひぇっ! とこぼれそうになった声を必死で飲み込む。
 上演だなんて冗談じゃない。そんなもの、いよいよもっておしまいじゃないか。走馬灯のはじまりだ。
 なんでもいい、なんとかしてここを切り抜けなければ。覚悟を決め、俺は腹にぐっと力を入れた。
「……申し訳ないですけど、観るまでもないですね。正直言って、この劇場自体、俺にはまったくいいと思えない」
 こういうのは勢いだ。根性だ。度胸だ。ハッタリでもなんでも、どっしり構えてしっかり立つことが肝要なのだ。
 ばれないよう、小さく息を吸い込む。難しい顔を作ると、胸の前で腕を組んだ。
「ステージですが、少し深すぎます。そこまで奥まっていないほうがいい。幅ももっと狭く、この三分の二か、半分でもいいかもな。そのほうがぐっと濃いものができますよ。座席数もこれじゃ多すぎる。客は多ければいいってもんじゃないですから。照明も明るすぎだ。スポットライトも必要ないですね」
 内心、自分でもわけがわからないと思いつつ、これぞ難癖なんくせというような言葉をひたすらに羅列する。演劇に携わるものとは思えないような支離滅裂な主張ばかりを吐きながら、慌てた様子はおくびにも出さなかった。演技は本職じゃないけれど、心得くらいはある。
「そうですか」と、男がわずかに困惑したような笑顔を浮かべるのに、これじゃお話になりませんね、という態度を全身で表しながら、胸を反らす。
 大股で出口へ向かう俺のあとを、男はゆったりとついてきた。
「坂木様は、簡素なものがお好みなのですか?」
「そうともいいますかね」
 名乗ってもいない名前を呼ばれても、もうちっとも怖くなかった。むしろ、うっかりボロを出した男に、「やっぱりな」とさらに勝ち誇った気持ちがわいてくるくらいだった。
「最低限が一番なんですよ」
「そういうものですか」
「俺はね」
 大物俳優みたいに大仰おおぎょうにうなずいてみせると、男は、「ご意見、参考にさせていただきます」と柔和に微笑んで頭を下げた。
「それじゃ、また」なんて再会を匂わす言葉が間違っても漏れないように、ぎゅっと唇を引き結びながらエントランスを抜けた。


 劇場を一歩出ると、外はむうっと蒸し暑かった。結構時間が経ったはずなのに、入ったときと日の高さも変わらない。これもよくある展開だ。不思議に迷い込んだとき、大体のケースで時間は経過しない。時空のひずみとかなんとか、そういうパターンだ。そうしてそのまま俺の時間も止まろうとしていたのかと思うとゾッとして、冷たい汗が背中を流れた。腕をつねると、ちゃんと痛い。なんとなく、さっきよりなお、ちゃんと痛い気がした。
 振り返るようなヘマは犯さずにずかずか歩き続けると、商店街の人の気配が近づいて、空気がふっと緩んだ。
 勝った……!!
 急に暮れ始めた景色を自宅へ急ぎながら、俺の足はなかばスキップをはじめていた。
 フラグを折った。全部、折ってやった。不思議な世界への扉を総スルーし、完全なる勝利を得たのだ。俺だって、伊達に十年以上も劇作家なんてやっていない。手垢のついた舞台設定にハメられてたまるか。
「祝・生還!」
 恥も忘れて道の真ん中で両手を突き上げると、俺はのけ反るように空を仰いだ。


 *


「ええと……ステージ環境は浅く狭く、人数はごく少数。ムードは明るくなく、スポットライトは不要、と……」
 男が小さな声で呟きながら手元のファイルにペンを滑らせると、静謐せいひつなシアターはみるみる姿を変えていった。
 ステージは半分ほどに縮み、二本の通路を挟んで3ブロックほどあった客席はセンター部分の席だけを残して消え、列も12から3列へと変わる。光量をぐっと落とした照明は鈍く、スポットライトは機材ごと消えていた。
 誕生、入学、卒業、就職、結婚……人間にとって、人生における大事な段階――ライフステージは、一生のうちにいくつもある。もちろん、そのステージ毎の内容は、個々人の生き方で如何様いかようにも変えられるけれど、「ステージそのものの質」はそうもいかない。
 空が空であるように、大地が大地であるように。人間が立つライフステージというものは、個人の努力や裁量でどうにかなるものではない。たった一度きりある、ステージ調整を除いては。
 男は「坂木護」と書かれた個人データへと目を落とし、困惑の混じった息を、ふう、と小さく吐き出した。
「坂木様はお子様もお生まれになりますし、よりたくさんの方に囲まれた明るく甘やかなライフステージを、と思ったのですが……。スポットライトも当たらないような『最低限』を望まれるなんて、変わった方だ」
 男がパタンとファイルを閉じると、ごく少数の座席の前、小さな舞台がうすぼけたライトでぼんやりと照らされる。狭くて浅いステージの上では、スキップまじりに住宅街を歩くひとりの男が、夕日を背になにやら叫びながら、両方の拳を突き上げていた。


(了)



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