見出し画像

コミュニティと周縁、そして場づくりと関係性へ


藤本さんの記事を読んだ。

藤本さんと初めて会ったのは、昨年の12月。そして、僕が自分の活動を紹介するときに「ワークショップ」という言葉を使わなくなったのは、彼と出会ってからだ。

藤本さんという人はそれくらい大きな影響を僕に与えてくれた人で、今日はこのnoteに触発されて書きたくなったので筆を取る。



明確なアウトラインも引かないまま、藤本さんのnoteを足場にして僕が「場づくり」について感じていることや「場づくり」に込めている願いを書いていこうと思う。どうかお付き合い願いたい。



「コミュニティ」:必ず取り残される人々がいる中心性

大学に入って、僕は「落ちこぼれ」になった。何度か書いているが、僕の場づくりの原体験はここにある。

1ミリもわからない線形代数の教室で、僕を助けてくれる人は誰もいない。僕の理解度などお構いなしに、先生は次々に板書を書いては消していく。横を見れば、クラスメイトは、さも理解したかのような顔でうなずきながらノートを取っている。

100人近くがすし詰めにされているような教室で「僕にわかるように説明して欲しい」と言うことはあまりにわがままなことだって分かるくらいの理性が、残念ながら僕にはあった。それは僕を尚更孤独にした。


「誰も、僕のことなんか見てくれやしない。」


ただ「授業がわからない」という単純な悩みから始まったはずが、僕は寂しさをこじらせた。そして僕はいつの間にか、大学というコミュニティの外に弾き出されそうな、周縁にいた。


大学だけではなくサークルや飲み会の場など、たびたび「周縁感」を感じていた僕はそのうち、大学やサークルや飲み会みたいな、そういうコミュニティ全般を恨むようになった。

周縁というものは中心があるから生まれる。そしてコミュニティには必ず中心があるのだった。大学ならば、勉強。合唱サークルなら、合唱。みんな中心を向いて、指一本分だけでもそれに近づこうと努力する。コミュニティはそういう“中心戦争”を生む運命にある。

だからコミュニティなんて、人の集まりなんて、世界から消えてなくなって仕舞えばいい。僕は本気でそう思っていた。


でもその一方で、コミュニティがないと生きていけないこともまた事実だった。授業にしたって、クラスメイトとの関係性がないと休講情報が回ってこなくて馬鹿を見るハメになる。結局、僕はコミュニティを嫌いながら、ずるずるとコミュニティに生かされていた。


僕たちはコミュニティがないと生きていけないけど、でもコミュニティは必ず周縁を生む。そして周縁は、寂しい。

その矛盾を、どうしたらいいのだろう?と考え続けて僕がたどり着いたのが「ワークショップ」だ。



「ワークショップ」:矛盾(カオス)のデザイン

ワークショップがつくる場は、僕には「ちょうどいい塩梅のカオス」に見えた。

ワークショップでは、授業なんかと比べると目的がふんわりと設定されている。だから、参加者は1つの正解に向かって競争しなくていいし、それが「なにをしてもいいんだ」という心理的安全を生む。

コミュニティという、閉じられた人の集まりに絶望していた僕にとって、ワークショップがつくる場は輝いて見えた。大学のように1つの中心に向かって競争するのではなく、ワークショップでは「共に時間・空間を共有している」ということだけを頼りに、参加者それぞれが自分らしい居方で存在することができる。そして、そこには周縁も中心もない。

僕はそういう“開かれたコミュニティ”を見つけられたことが嬉しくて、ワークショップを学び、自分で実践するようになった。


しかし実践を重ねるうちに、自分がワークショップに求めているものと、世間がワークショップに求めているものに、ズレがあることに気づいた。

世の中で流行っている文脈では、ワークショップとは、たいてい「何かを成し遂げるため」のツールに過ぎない。

目的を設定することは、つまり中心を設定することだ。僕にとってそういう、世間が求めているワークショップは、“中心により近づけた者が“エラく”て、周縁にいるものは“バカ”とされる世界”を再生産しているに過ぎなかった。


もちろん、ワークショップは多様だ。目的を設定するより、周縁を作らないことを大切にしているワークショップの実践例も多数ある。しかし、僕が住んでいる東京ではワークショップがビジネスに活用される機会が多かった。ビジネスの文脈で活用されるワークショップでは、他のワークショップに比べて目的を設定することが周縁をつくらないことより重視されることが多い。

敢えて言葉を選ばずに言うと、そういうビジネス用途のワークショップは、僕にとっては“汚染”にしか見えなかった。


「僕が求めていたのがワークショップではないとすると、その正体は何なんだろう?」

再び迷子になった僕は、また自分の信じられるものを探して歩き始める。そんな時に出会ったのが、藤本さんだった。



「場づくり」:関係性の再構築が生まれるところ

去年の12月。僕は尼崎を訪れ、そこで藤本さんに出会った。

わずか20時間の滞在だったが、帰りの新幹線で僕はひたすらボーッとするしかなかった。それほどに大きな衝撃を、僕は藤本さんから受けたのだった。


あのとき言葉にできなかったその衝撃の正体が、今回引用している藤本さんのnoteに書かれていた。

ぼく個人としては、コミュニティとコミュニティのあいだ、あるいはコミュニティの周縁がとても気になっている。また、コミュニティの外に弾かれてしまった個人や要素への眼差しも忘れたくない。さらには、人以外のもの(自然物)との関係性の再構築という点にも関心が湧いてきた。それらをすべて含んだ意味合いで「場づくり」という概念を捉え直してもいきたい。

上記のことは、とりもなおさず「それぞれの本来の価値(本領)をいかしあう生態系と社会経済システム」のリデザイン・編み直しのことであると思っている(なんだかめちゃくちゃ大きな話になってしまった)。そのように、よりホリスティックな概念として「場づくり」を再考していきたいと考えているし、その実践をしていきたいと思っている。

コミュニティの周縁、という僕がここまで頻繁に使ってきた言葉は、実は藤本さんのnoteから借用したものだ。

藤本さんはそういう周縁を眼差し、関係性の「再」構築、「リ」デザイン、編み「直し」といった仕方で場づくりを再考していこうとしている。


僕がやりたかったのは、まさにこういうことだった。

コミュニティを全体として「1つのもの」と捉える限り、その視点はすでに中心への志向性をはらむ。だから、コミュニティを全体として捉えるのではなく、個人個人の、個物個物の、それぞれの関係性がただ集まっているものとして考えるのだ。この集まりには、結果はあっても目的はない。そこにあるのは、ただ個人個人であり、個物個物であり、そしてそれらの間の関係性だけなのである。

一方で僕たちはすぐ、まとめたがる。「要は〜」「つまり〜」と言いたくなるのはその証拠だ。実際、そのほうが人に伝わりやすく、社会活動には向いていることは間違いない。だけど、まとめるという行為は、なにか別々のものを「1つのもの」として見なすことに他ならないのだ。


だから僕たちは、まとめたがるのをやめなきゃいけない。

僕が「場づくり」という言葉に感じていた魅力は、まとめたいという衝動を超えて、代わりに「コミュニティ・場=まとまり」という定義式を「コミュニティ・場=関係性のただの集まり」と置き換えているように感じられた点だ。

それで、今に至る。僕は自分を「対話と場づくりの人」と呼んでいるのは、そういうワケだ。



おわり

まぁ、とは偉そうに言ったものの、僕には今のところそういうコミュニティづくり(場づくり)の経験がほとんどない。そして不思議なことに現時点では、そういう「経験がない」という怖さを打ち破れるほどの魅力をコミュニティづくりに感じているわけでもない。

今の僕にはせいぜい、安全な場所からこうして偉そうな言葉を連ねることが、関の山だ。


それでも、いつかきっと、今日書いたようなことを自分の手で実現したくてたまらなくなってしまう日が来るのだろうと予感している。そしてそのときには、藤本さんのnoteが大事な道標となるだろうということも。

藤本さんのnoteの後半部分は、今の僕にはいまいちわからない。ローカルだとか、お金の話だとか、うっすらと大事そうに見えるが何の話だかさっぱりだ。

何年後かには少しはわかるようになっていたいものだという願いを込めて、今日はここで筆をおくことにする。


ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?