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戦後75年というけれど・・9

今年93歳になる戦争体験者の久保沢さんへのインタビュー。終戦後でもまだ兵士の役目に徹していた2か月間。いろんな思いが錯綜していたことだったろう。

【武装解除までのつかの間の平和な日々】

中国では、八路軍と中国国民党との戦いが各地で拡がっていきました。今度は蔣介石率いる中国国民党が、日本軍が保有していた兵器に目をつけ、八路軍との戦いに勝利するためだったのでしょう。私たちに野砲の射撃訓練を依頼してきました。

しかなく二週間指導するということもありました。通訳と文書が意思疎通手段でしたが、中国兵の文盲の酷さはあきれたものでした。通訳とて軍隊用語兵器用語の不理解があり、共通する漢字が中国兵の文盲で読めないものですから、意思不通となり、幼稚園児に教えるように手を取り足を取りの指導をするしかありませんでした。

また、その戦いに直接駆り出され、命令に逆らえずやむなく戦いに参加して、終戦後なのに戦死したひともあったのです。私は、戦いに駆り出されなかった代わりに、北京郊外の西郊地区にテント村建設の作業に関わることになり中隊長の副官として長辛店から作業現場まで自転車で中隊長とともに約1か月間通いました。

近づく雪に対処する排水対策としてテント設営地を土盛りして建設しました。というのは、北京城内にいた千人くらいの日本人の安全を確保するため、西郊にテント村を建設し日本人を守らなければならなかったのです。


その仕事をしているとき、近くには日本人の家らしい建物が20軒ほどあり
ました。中で暮らしているのは当然日本人でしたが、ほとんどが中国に帰化した日本人たちでした。北京城内からテント村に移った日本人とは一線を画し接触することはありませんでした。同じ日本人だから、安全確保のために警備を申し出ましたが、彼らは中国人将校を賄賂で抱き込み安全を確保していたようです。


武装解除までの約2か月間、仲間たちと、よもやま話をする時間も持てました。8月15日の終戦後、列車の運行が停まり日本兵が現地部隊に帰ることが不可能となりました。軍は、日本への帰還業務を円滑にするために兵士たちを集合させる予定でした。


そこで、宿営施設に余裕のある私たちの駐屯地にその兵士たちが集まって来たのです。兵士たちは兵種兵科年齢出身地も様々でよもやま話は一層盛り上がったものです。


ある時、懐かしい言葉が私の耳に聞こえてきました。
「あんだ~東北のどごの生まれだ?」「わ、岩手の葛巻だ。あんだは?」などの会話が生まれ、久しぶりに故郷を思い出しました。

中国の各地で戦争が起こっていたものの、私の周辺は平和そのものでした。・・・つづく


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