見出し画像

2022/05/10 妄想を閉ざしていく作業としての決断。

 夢の中でつつじの低木に引っかかった猫のぬいぐるみを引き抜くと本物の猫になった。その猫みたいなものがドアの隙間に逃げていき、蚊になって僕の腕に吸い付いた。

 通常低音で響き渡る自分探しという空虚さ。それは飽くことなく、自分という何かがあると信じるからこそ生まれるものでもあるだろうが、自分は探すものではなく、行動の結果他者の心にイメージとして生み出されるものじゃないか。内面の自分がどうであっても実際に見えるのは、口に出された言葉と行動だけなのだから、繊細になりたがる心のことなど無視してもよいと思える。

 死ゆえの有限さ
 弱さこそが人間だとすると、それが気持ちとか儚さをもたらしている。
 歩いていく道の先に光が降り注いでいたけれど、その陽だまりを避けて通るほどなにかに怯えていた。
 苦しみを選べ。どんなことにも嫌なことや苦しいこともある。どこにもないなんて欺瞞だ。楽しいことばかりが続くとその楽しさ自体がコントラストのたり無さで苦しみになる。だったら苦しんでもいいと思える苦しみを選びたい。

 選ぶのは自分の可能性というか、妄想を一つずつへし折っていく作業である。数少ない確率でもその可能性があると思えるものは、可能性ではなく妄想だろう。妄想に耽溺するのは心地よいので、妄想の範囲は広ければ広いほど広大な地平が広がっているように思える。
 なにかの意見を言うことも選ぶことといえる。考え抜いた意見を言い選べば選ぶほど、自分の価値観が明確になり、自分を探す必要がなくなる。自分探しというのは自分について選んでないし、考えていない人の妄想な気がしてきた。

考えが浅いのが自分の問題点なので、考えて考えて考えなきゃならない。答えがない一つの物事を、自分で決めるまで考え尽くすというのがどうにもできない。答えのでない問題なのに、自分で考えずに、良さそうな他者の意見を持ってきて使おうとする。そうなると、自分で考えてないので、新しく新鮮で良さそうな意見が出ると自分が流されてしまう。自分が無いと思っているのも原因は全部これじゃないか。答えの出ない問いに対して答えを外から持ってくるんじゃなくて、自分なりに答えを決めてみよう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?