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「サイレンが鳴った日」 はまりー

「もーいい。このまま我慢してたら死んじゃう!」
 わたしは叫んだけれど、その声さえ耳を聾するこの轟音に掻き消されてしまう。
 街のあちこちに狼煙台みたいに立ったスピーカーは、今年12歳のわたしが生まれるずっと前からおとなしく沈黙していた。
 それが突然鳴り始めたのは2日前のこと。ずっとカーテンを閉め切った窓の外から恨みがましい女の断末魔みたいな甲高い叫び聞こえてきて、わたしは飛び上がった。パパは青ざめた顔でサイレンの音だ、と云った。でもそれがなんのサイレンかはパパもママも知らないみたい。弟はいきなり赤ちゃん返りを起こしてママのおっぱいをねだるし、ママは泣き出しちゃうし、もうメチャクチャだった。
 わたしたちは耐えた。食事や水はいつも通りにシューターから送り込まれてくる。新しい服だって。死ぬ心配は無かった。死ぬほどうっとおしいこの音に耐えきれず、自分で舌を噛んじゃわなければ。2日間、わたしはウサギのぬいぐるみを抱いてベッドに潜り込んでいた。ウサギをぎゅうっと抱きしめると、少し不安がやわらいだ。2日目に、その“癒し”とやらにも飽きてきた。わたしはウサギのみぞおちにエグいパンチを二発ぶちこんでから、猛然と立ち上がった。
「外に出る。外に出て、あのスピーカー、いばいたる!」
 わたしが云うとパパとママは青ざめた。お上に逆らうのはやめなさい、とパパは云い、あんなにいい子だったのに、とママは泣いた。知らんちゅーねん。このまま放っておいたら、耳がバカになってそれから頭までバカになるちゅーねん。
 マンションの鍵を開けるのに手間取った。
 生まれてはじめてのことだったから。そうか、このツマミを回して、ノブってヤツを下におろせばいいんだな。パパは怒鳴り、ママは泣き、弟はなぜかしらんが笑っていた。うちの弟はバカだ。みんながわたしのすぐうしろにいて、それでいて誰もわたしの身体に触れようとしなかった。なんかしらんけどわたしはそのことにめちゃくちゃ腹が立った。
 ドアを開けてもサイレンの音量は変わらなかった。めちゃくちゃうるさい。ということはここのマンションの壁なんか防音の役に立たないくらい、すごい音量で鳴り響いてるってことだ。廊下にはガラスがすこし散らばっていたけれど、人の姿はなかった。廊下にならんだ扉を見つめる。他の部屋の住人はこの騒音をどう思ってるんだろう? 
 わたしは両手で耳を塞いで、そろそろと進んだ。エレベーターの前でしばし立ち止まる。エレベーターの乗り方、タクシーの止め方、駅での改札の通り方、そのあたりはeラーニングで学習済みだ。
 でもネットの教育はエレベーターが気持ち悪い乗り物だってことまでは教えてくれなかった。がくんと音を立ててエレベーターが動き出したとき、急に胃が下に引っ張られたみたいに感じになって膝ががくがくになった。
 一階に下りたとき、すでにわたしにはスピーカーのこともサイレンのこともどうでもよくなっていた。なんだろう、この不思議な匂い。ママがつくるどんな料理の匂いとも違う。空気そのものが匂ってる。体臭の臭いともカビの匂いともサビの匂いとも違う。ヘンな感じ。
 わたしの目は驚きに見開かれていた。これがミドリ、ショクブツ……たしかウエコミってやつだ。タブレットの写真で見たとおりだけれど、日光の下でみるととっても生き生きと輝いてみえる。まるで……生きてるみたい……ってのはヘンか。ホントに生きてるんだから。
 あっ、ジドウハンバイキだ。電気消えてる。
 あっ、ジドウシャだ。わっ、キモ。いっぱいある。
 あっ、ドウロだ。アスファルトってこんな匂いがするんだ。
 そして。
 ドウロに長く伸びたわたしの影の先に、立っている生き物がいる。
「あ」声が出た。「あ」相手もオウムみたいに同じ返事を返した。
 そこに立っていたのは人間の男の子だった。
 フードのついたブルゾン(って云うんでしょ?)を着てる。センスのないヤツだ。人のことは云えないかもしれない。わたしだって寝間着の上にピンクのコートだ。
 重ね着してるのにさあっと鳥肌が立つ。家族以外の人間に会うのはこれが初めてだった。足の爪先から恐怖がじわじわとせり上がってきてすぐに心臓まで届く。ことばも覚える前からママに叩きこまれたんだ。ソーシャルディスタンス。飛沫の飛ぶ距離。濃密接触。
 人と触れ合うことは死、死、死。
 わたしは悲鳴をこらえて、二歩、三歩とあとずさる。
「ちょっと待って!」
 男の子が叫ぶ。タブレットから流れてくるどんなドラマの男役の声とも違う。わたしの足を止めるには充分なくらい新鮮な声。
「もう大丈夫なんだよ」
 男の子はそれ以上わたしに近づいてこようとしない。よくわかんないけど悪い奴ではないみたい。
「きみも聞いてたろう? さっきまで鳴ってたサイレンの音」
 さっきまで、鳴ってた……?
 あ、と思った。サイレンの音がいつの間にか消えてる。外の世界に気を取られてそのことにも気がつかなかった。
「ね、聞こえてたろ? あれは緊急事態宣言解除のサイレンだったんだ。ほんとは2023年の5月7日に鳴るはずだった。13年も前さ。それが2日前に鳴ったんだ。感染率が高い突然変異種のウィルスはワクチンも効かなくて、人は13年間、家に隠れてるしか方法がなかった。そのウィルスが検知されなくなったから、あのサイレンが鳴ったんだ。ね、わかるだろう?」
「え、どういうこと……?」
「もう終わったんだよ」
 男の子は朗らかに笑った。わたしと同じくらいの年のようだけど、笑うと印象が一気に幼くなる。
「元の生活に戻れるんだ」
 元の生活って……?
 朝から晩まで他人とぎゅうぎゅう詰めの生活。満員電車。何千人も吸い込んでいく巨大ビル。学校。放課後の体育館。レストラン。マンガ喫茶。ラーメン屋。
 ぞっとした。想像したどの場所もひとで溢れている。
「いやだ」
 わたしは首を振った。
「そんな不潔。不衛生。耐えられない」
「そんなこと云ったってさ」
 男の子はチェッと舌打ちする。
「人間は何百年も、そんな生活をしてたんだぜ」
「そんなこと知らないよ。わたしはイヤだ。他人と触れ合う生活なんて、怖くて、イヤ」
 男の子は困ったような顔をする。
「そりゃ残念だ。ぼくの夢は叶いそうにない」
「あなたの夢って……?」
「外に出て、初めて会った人と握手をしようと思ったんだ。タブレットで見たことあるだろう? 人と人が手を握り合うのさ!」
「不潔! 最低!」
 わたしは青ざめて首を振る。
「イヤだ」
 途方もない恐怖がわたしをつつむ。幼い頃からわたしのそばにいた恐怖。
「怖い」
 それなのにわたしは男の子から目を離せない。
「怖い!」
 もはや何を怖がっているのかわたしにもわからない。
「ちょ、ちょっと、落ちついて。わかったよ。そんなに怖いならムリにはしないさ」
 男の子はぽりぽりと頭を掻く。
 その手を降ろす途中で、なにかに気づいたように動きを止める。
 男の子はわたしにむかってニコっと微笑む。
 それから、アスファルトの上に長く伸びたわたしの影に手を伸ばす。
「ほら、これならいいだろ?」
 男の子は、わたしの手の影と握手をする。
 反射的に逃げようとして……わたしは思い止まり、男の子のするがままにまかせる。
 わたしの影は男の子と手をつないだ。
 男の子は上機嫌で笑っている。その顔を見ているうちに……なんだかわたしも笑いたくなってくる。
 不思議だ。なんだろう、この気分。
 見つめるわたしの影の上を、小振りな影が過ぎる。
 あ、と声を挙げて頭上を仰ぐ。あれはなんて名前だろう、わからないけれど、なにかの生き物が二羽、わたしたちの頭上を飛び去ってく。
 わたしが生まれて初めて見た鳥だった。
「ずっと家の中に居て、年に3000本くらい映画を観てたよ」
 男の子が云った。
「映画の中にひとつ、忘れられないセリフがあるんだ。『生きて行こうとさえ思えば、どこだって天国になるわ。だって、生きているんですもの』ってさ」
「天国」
 わたしは呟く。
 真っ青な空を見つめたまま。
 新鮮な空気が愛おしくて、わたしは大きく息を吸い込む。
 これが天国の空気なんだろうか。
 目が合うと、わたしと男の子はどちらからともなく、ぎこちなく微笑んだ。

 (了)


『サイレンが鳴った日』はまりー(3361文字)


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