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「カラーコンタクト」 紺田キト

 ××中学二年三組、三十六名、眼鏡率は一〇〇パーセント。
 三年前、他人の感情がオーラのように、その人から滲み出す色として見えるレンズ「エモグラ」が発売された。文字通り「人の機嫌をうかがう」この眼鏡は対人関係の不要な衝突を避けるとされ、瞬く間に眼鏡として普及した。その結果、クラスメイト全員が眼鏡をかけるようになった。僕がエモグラを使い始めてから半年が経つが、人によって出やすい色と出にくい色があるようだ。たとえばサッカー部の牧野は、明るいオレンジ色をしていることが多い。しかし数学の授業中に当てられると青くなる。イケメンで人気な古典教師の佐藤先生は普段おだやかな水色をしているが、ある日濁った灰色になったときがあった。いつも彼にやかましく質問をしに行く女子生徒たちもエモグラ越しに異変を感じ取ったのか、その日はおとなしかった。後日、佐藤先生は忌引で数日間学校を休んだ。
 相川沙希菜の色は、いつも黒い。彼女を取り巻く黒いもやは水面に落とした墨汁のように心臓部分から滲み出て、魔女のローブみたいに全身を包んでいる。彼女とは一年生の頃も同じクラスだったが、入学した頃から明るく、バスケットボール部で、いわゆるお転婆で、体育祭の実行委員をやるような女子だった。だから最初、彼女をエモグラ越しに見たときは驚いた。そして、それは僕以外のクラスメイトも同じだった。
「なんかさ、沙希菜、黒いよ」
 二年三組で最初にエモグラをかけたのは東郷文乃だった。東郷は相川が所属していたグループの中心人物だ。家が金持ちで、大人びていて、高校生の彼氏がいた。
「え、黒い?」
「うん、ちょっとみんな見てみ」
 それから、その東郷グループ内でエモグラ試着会が始まった。赤くてシャープなメタルフレーム。女子たちは次々と眼鏡をかけては「本当だ、黒」「やば、なんか憑いてない?」「ちょっと怖いんですけど」と相川を評した。
 その翌日から、相川はいないものとして扱われた。それはたとえば上履きを隠すとか、トイレの個室にいるときにバケツの水をかぶせるとか、攻撃ないじめではない――そうするには不気味すぎた――はれ物を扱うようなシカトだ。相川は以前と変わらなかった。宿題への愚痴、放課後の予定、クラスメイト同士の浮ついた話を、今まで通り明るく級友に話しかける。そして級友が気まずそうに目をそらすと、彼女も困ったように笑った。

 ある日の下校途中、通学路途中の商店街で、前を行く相川を見かけた。毛先が少しだけ外に跳ねたボブカットに、スカートから伸びたひょろりと長い脚、何よりエモグラに映る真っ黒なもやで、その背中が相川だと分かった。僕の家は隣の学校との学区の境目にあり、このあたりに住む生徒は少ない。たしか相川の家も、学校を挟んで反対方向のはずだった。
 相川は、自分の色が黒い理由を語らない。語らない理由も話さない。だからこそシカトされるようになったのだが。たまたま彼女が僕の家と同じ方角へ歩いていたので、僕は彼女の背中を追うように歩いた。声はかけなかった。
 エモグラに映る色は、少しだけ残る。雪の日の足跡ほどハッキリとは残らないが、タバコの残り香くらいには分かる。西日が差す橙色の世界で、大人たちの赤や青や黄色なんかに囲まれながら、相川の黒いもやは重たい煙のように地上から一メートルあたりを薄く漂っていた。
 商店街を抜けると踏切がある。その手前を左に曲がると、線路沿いの人通りの少ない細い道が続いている。黒いもやはそこに続いていた。僕の家は踏切を越えた先だ。僕は踏切を渡らず、左に曲がった。
 道の左手には、竹藪が広がっていた。数分置きに道の右側を電車が通り抜ける。電車の窓から漏れる白い明かりがフラッシュライトのように、日没近い紫色の視界を照らした。早足で道を進む相川の姿はだいぶ小さくなっていたが、電車の光で断続的に浮かび上がる黒色は、たしかにこの道をまっすぐと進んでいた。

 二年間同じクラスとはいえ、僕は相川とそこまで親しくなったことはない。特別嫌っていたわけでもない。それでも一度だけ二人きりで話したことがある。一年生の秋、休日に家の近くの図書館へ向かっていると、目の前に自転車を押す相川が現れた。
「あれ」
「相川じゃん」
 まだ校内でエモグラが流行する前の日常で上下ジャージ姿の彼女は、これから部活へ向かう快活な少女のように見えた。
「この辺で会うのって珍しいな。相川って、家こっちなの?」
「いや、〇〇町のほう。今日は△△中で練習試合があるから」
 たしかに彼女が肩に下げているのはバスケットボールを入れるボールバッグだった。よく見かけるスポーツメーカーのロゴが入っている。
「そういうのって、部活でまとまって向かうもんだと思ってた」
「いや、そうでもないよ。家から直接行ったほうが近い先輩とかもいるし。うちはわりと現地集合かな――アンタはこっちのほう住んでいるんだ」
「うん。△△小だったし。帰りもここ通るなら、そこの角のお肉屋さん寄るといいよ。メンチカツが激ウマ」
「そうなんだ。寄ってみるよ」
 じゃ、そろそろ遅れちゃうから。相川はそう言って、僕の横を通り過ぎて行った。朝シャン派なのか、せっけんの香りがした。

「気持ち悪い」
 相川が目の前に立ち、僕をにらんでいた。黒いもやにばかり気を取られて、彼女自身との距離が近くなりすぎていたようだ。日は完全に沈み切っており、数メートルおきに設置された街灯の明かりだけが白く目立つ。その街灯の明かりのなかに、相川は立っていた。彼女との距離は二メートルほどしかない。黒いもやは光の下ではハッキリと見えるが、外の暗闇へと出ると輪郭が分からなくなる。その様子はまるで、彼女自身が夜闇から溶け出しているかのようだった。
「なに。学校からずっとついてきたわけ。なんのために?」
 彼女の眼光は鋭い。こちらを蔑むように、光のない目をしていた。こんな険しい表情の相川は見たことがなかった。
 いや、学校からじゃない。商店街でたまたま見かけただけだ。そう言おうとして口を開けたが、言葉が出てこなかった。
「気持ち悪いよ」
 彼女は繰り返した。その言葉は呪いのように、僕をその場から動けなくした。その代わりに口が動くようになった。
「い、いや、ほら、あの、家、こっちじゃないって、言ってたから、変だなって、思って」
「は? 何その言い訳。馬鹿じゃないの。それならそうと、さっさと声をかければ済むでしょ」
「そ、それは……」
 僕が答えよどんでいると、相川が一歩踏み出した。街灯の明かりから外に出て、闇の中で彼女の表情は見えなくなった。エモグラに映る黒いもやも分からなくなった。
「そんなに私の色が気になる?」
 ごくりと生唾を飲んだ。ほとんど無意識のうちに彼女の跡を追っていたが、そう指摘されると図星としか言いようがなかった。暗闇のなかで彼女が続ける。
「そりゃ気になるよね。私の性格で真っ黒なんて、どう考えてもおかしいし。どんだけ腹黒なんだっての。でもさ、どうしてそのワケを言わなきゃいけないわけ? 人間生きていれば秘密の一つや二つできるでしょう? 私だけじゃない。東郷さんだって、アンタだって、クラスメイトに言っていないこといくらでもあるはず。でもエモグラのせいで、その眼鏡が勝手に私の感情を決めつけて、どういう理屈か分からないけどそれがなんだか不気味ってだけで、どうして私が話さないって決めていることを根掘り葉掘りほじくっていいわけになるの? そんなのおかしいよねえ」
 不意に、相川に胸を突き飛ばされた。三歩ほどつんのめって、僕は街灯の下に背中から倒れてしまった。起き上がろうとしたところで、左頬にひんやりと冷たい感触があった。相川の右手が僕に触れていた。街灯の明かりの中でも見下ろす彼女の表情は影になっていてよく分からない。彼女の右手はそのまま左耳へと伸び、僕のマスクの紐を指にかけ、勢いよくはぎ取った。カシャン、と巻き込まれたエモグラが近くの地面で跳ねた。
「ふうん。そんな顔していたんだ。なんていうか――」
 唇が外気に触れている。鼻から吸う空気が冷たい。視界にエモグラのフレームが映っていない。突然、胸の奥でどす黒い不安が広がり、全身に鳥肌が立った。相川は僕の前に膝を抱えてしゃがみこんでいて、観察するように僕の顔をのぞき込んだ。視線の高さが合った彼女の顔はハッキリと見えたが、それがどのような感情を表しているのかまったく分からなかった。
「……まあいいや。なんかまじまじと見てたら、気持ち悪くなってきちゃった」
 そう言うと、相川は両ひざに手をついてきて、ゆっくりと立ち上がった。ゴッ。すぐ横を電車が通り過ぎた。それと同時に相川の白いスニーカーが顔面に飛んできて、僕はひっくり返った。口の中に鉄の味がして、鼻血が出た、と思った。
「――――」
 相川が何か言ったが、電車の音で聞こえなかった。蹴られた衝撃でぼやけた視界の中に、僕がかけていたエモグラが転がっている。さっきの衝撃でフレームが少し歪んでいる気がした。それを白いスニーカーが砕いた。めきゃ、と金属が呻く音が聞こえた。電車は通り過ぎていた。暗闇のなかで白く浮かぶスニーカーが、あとに続くように小さな足音を残して去っていった。

 次の日から、相川は学校に来なくなった。家族と夜逃げしたとか、△△中の不良グループとつるんでいるとか、様々なうわさがささやかれたが、どれも根も葉もない話ばかりだった。相川だけでなく、僕にも変化が起きた。壊されたエモグラはどうしようもなく修理不可能で、そのうえ世界中でエモグラが品不足になっており、久々の裸眼生活を余儀なくされていた。
 裸眼で生活していると、ふとした瞬間に叫び出しそうになった。休み時間に談笑しているとき。英語の授業で音読をするとき。商店街のゲームセンターで遊んでいるとき。そばにいる人たちの顔が、あの日の相川の顔をしている気がした。


『カラーコンタクト』紺田キト(4035字)


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