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「白加賀さん」 児島成

 冬子以外の全員が出かけてしまうと、家の中は静かだった。

 邪魔する者はいない。冬子はそう考えた。これで心置きなく梅の木を眺める事が出来る。眺めるだって? 私は梅の木を眺めるんじゃない。梅の木と話をするんだ。この家を建てる時に裕二さんが植えてくれた。だから何となく裕二さんみたい。白加賀さんは咲く直前の凛とした佇まいがいい。植物をさん付けで呼ぶ人を裕二さん以外知らない。激しい感情を表に出す事がない人だった。店を継いでくれた上、商いが厳しい時も文句一つ零した事がなかった。指南書片手に碁盤と睨めっこしている裕二さんに話しかけると、いつもにこにこ笑っていた。碁は難し過ぎて分からない、私がそう思う気持ちを察するのか、笑うと三日月の形になる目を庭の白加賀さんに向けながら。白加賀さんは裕二さんを映す鏡。鏡には私もきっと映っている。蕾が昨日よりも大きい。白い花が咲いてしまえばもう、直ぐ、春だ。白加賀さんに新聞でも読んであげましょう。何々。「世界の砂漠化進む」、「葉物野菜価格の高騰続く」。ああ、細かい字が読み辛い。そんな時は、そうそう。皆さ、馬鹿にし過ぎ。ちゃんと使いこなせますよ、スマホ。虫眼鏡のマーク。ほら、大きくなった、ねえ、裕二さん。

「先に行っていますよー」

 冬子が顔を上げると、近所の櫻子の顔がブロック塀の向こうに見えた。

 今日こそ決着を付ける。冬子は仏壇に手を合わせ、立ち上がった。本日快晴。勝負に相応しい、雲一つない青空じゃないの。

 門を出たところで冬子は虎柄の猫と出会った。前日も前々日も、その前日も。要するに、いつもの事だ。

「お早う、トラちゃん。いい子だからおやつをあげましょう」

 トラは暖かな日差しのような手に撫でられるままにしていたが、煮干しを食べ終えると、冬子を背に歩きだした。その時、向こうからペルシャ猫が近付いて来るのが見えた。

 飼い猫の筈だけど、と冬子は思った。どうしたのかしら。トラちゃんの機嫌が悪い。背中を見れば分かる。猫は背中で語る。いつだったか、裕二さんがそう言っていた。裕二さんならこんな風にトラちゃんを演じるかも知れない。田村ファミリーのところのショウ、あいつ最近ニャマイキだ。ボスが金持ちだからって調子こいてんじゃねえ。自分がニャンバー・ワンじゃニャきゃ気が済まニャい奴っているよニャ。びびって逆毛立てやがって。ださいんだよ。大した実力もニャい癖にでかい面する奴の肉球にはパグの糞がよく似合う。無視、ムシ。俺はフリーランスだからニャ。ドライってやつ。クライアントの冬子さんの事は正直嫌いじゃニャい。だが、これは仕事だ。クライアントは俺に煮干しを提供する。俺はその対価を提供する。俺にはそれしか出来ニャい。おっ、冬子さんは今日もコミヤ珈琲かい。ご苦労さんだね。飽きもせずによくやるよ。じゃあ、ショウには悪いけど、ミーちゃんにちょっかい出しに行くか。

 トラは公園の茂みの向こうに姿を消した。

 冬子がコミヤ珈琲の扉を開けると、からんころんと音が鳴った。いつものテーブル席で櫻子はちょうどモーニングの卵の殻を割るところだった。かちっ。

 あれ、今日は良夫さんも来ているじゃない。

「お早う。辰兄、いつもの」

「お早う。冬ちゃん、今度の日曜日によっちゃんの小唄発表会あるんだけどさ、どうする」

「あ、行く」

「辰兄は」

「そうだな。顔出すよ」辰男は淹れ立てのコーヒーをカップに注ぎながら返事をした。

「よし。決まり」櫻子は剥き卵を一口で飲み込んだ。「ふぉれひゃあ、ふぉおふぉお」

 冬子は棚からオセロ盤を取り出し、櫻子の前に座った。

「二百八十八勝二百八十八敗七分け」コーヒーを運んで来た辰男はそのまま良夫の前に腰を下ろした。

 冬子も櫻子も敵に打ちかかるもののふのように真剣な表情になった。緑の盤上で白と黒が入り乱れた。ふと、冬子の手が止まった。何となく負ける予感がしたからだ。良夫は窓辺のベンジャミンの鉢植えにスマホを向けていた。突然、良夫のスマホが女性とも男性とも付かない声で喋りだした。


〈白a3で白の勝利、パーフェクトです。〉


 確かにその通りだった。良夫以外の三人は思わず顔を見合わせた。

「よっちゃん、今のは」と櫻子。

「植物の声です。グリプラ」

「え、何」と辰男。

「グ、リ、プ、ラ。グリーン・プラネットの略でグリプラね。植物と会話出来ちゃう、今話題のアプリ。凄いでしょ」

「じゃあ、今のは、ベンジャミンさんが」と冬子。

「よっちゃんは昔からオノデン坊やだったから。でもさ、会話って言うけど、よっちゃんの方は何も喋らなかったじゃない」

「話しかけたい植物に向かって念じるだけでいいんだ。植物には人間の思考を読み取る能力があるからさ。例えば、『オセロの勝ち方を教えて』って念じる。で、カメラの映像をアプリの画面に収まるようにしながらここをタップすると」


〈オセロはゲームです。一般的に、ゲームには定石があります。オセロの場合、角を取ると有利になる事は言うまでもありません。一つ、有益なアドヴァイスをしましょう。毎日ここで眺めていて思ったのですが、あなた方は恐らくこの事を知らない。戦略上重要な角は八×八の正方形のそれだけとは限りません。盤をよく見て下さい。黒い丸で表わされた点が全部で四つあるのに気付くでしょう。つまり、八×八の大きな正方形の中にこれら四つの点を結んだ四×四の小さな正方形があります。まずは四×四の角を取る事を目指しましょう。その際、なるべく四×四から出ないように打つのが望ましいです。〉


「えー、不思議。また手品でからかっているんじゃないの」

「違うって。やだなあ。櫻子ちゃんもやってみなよ。ベンジャミンに向かって好きな事を念じてごらん」

「何でもいいの?」

「勿論。声に出さなくていいからね」


〈遠くの木々の話では、急速に発達した雨雲が間もなく東京上空に到達します。雷を伴なう激しい雨が降るでしょう。因みにですが、水は好きです。雨降りの日に外を眺めているだけで楽しい気分になります。〉


「ちょっと、天気予報と違うじゃないの。洗濯物込まなきゃ」櫻子は慌てて帰り支度を始めた。

「遠くの木々の話って」と辰兄が首を傾げながら言った。

「植物同士で会話出来るみたいなんだよね。距離とか関係なしに」

「おかしくないか。脳もないのにどうやって会話すんのよ」

「辰兄は直ぐそうやって難しく考えるから。気にしない、気にしない」

 冬子はオセロの事などどうでもよくなってしまった。「それ、私も使いたい」

「ちょっとスマホ貸して。ここをこうして、あった。パスワードは? うん、そうそう、そこに入力して。はい。ダウンロード完了。もうそれでばっちり使えるから」

「うん。有り難う。私帰るね」そう言うと、冬子は立ち上がった。

 白加賀さん、いや、裕二さんと話したい事が沢山あるんだ。

 からんころん。外は何となく泣きだしそうな気配が漂っていた。


『白加賀さん』児島成(2805字)



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