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「同じ景色を見るということ」 止戈敏(しか・さとし)

弟の遺品は驚くほど少なかった。

高校の頃から使っていた筆記用具、財布などの小物が数点、お気に入りの小説、そして妙に使い込まれたスマートグラスだった。

実家から出て一人暮らしをしている弟が死んだと聞いた時、しばらくのあいだ事故か何かだと勘違いしていた。

自殺するだなんて思いもよらなかったし、就職して地方に住む僕に電話をかけてきた父がただ『死んだ』としか口にしなかったからだ。思えば、常に落ち着いて思慮深く発言する父の声が、電話越しに聞いてわかるほど狼狽えていた。

「そのメガネみたいなやつ、スマートフォンなんでしょう?あなたにしかわからないだろうから中身見ておいて頂戴」

悲しみに耽ける暇もなく葬儀を終え、かつて家族4人で過ごした実家で一息ついていると、母から遺品の入った段ボールを渡された。家具などの大きなものはマンションを引き払った時に処分したので、後には両手で抱えられるほどの品物しか残らなかった。

他はともかく、押入れの奥に仕舞ってしまう前にスマートグラスは見ておかなければならなかった。アカウントやらサブスクリプションやら、必要なら解約しないといけない。

今どき珍しいものではない。コロナ禍が収束して人々が外を出歩くようになってから、その波に乗るように街中で着用するスマートグラスが普及し、ゴーグルと気軽に呼ばれて人々の生活に定着した。解像度や輝度が飛躍的に上昇したことに加え、本体の軽量化、他デバイスとの連携の強化、ネットワーク機能、網膜認証、ジェスチャー機能、骨伝導マイクとスピーカーといった諸々の技術が進歩したことで、コンシューマでも大きな市場が展開されるようになった。

僕は現場を見なかったが、それは弟が最後に過ごした部屋の床に置かれていたものだそうだ。

他には遺書も日記も残されていなかったから、何かメッセージのようなものがあるとしたらこの中にあるはずだ。そういうことも含めて母は僕にこれを託したのだろう。それに、昔からデジタル機器は僕の担当だった。

しかしもちろん、認証を通過できなければどうすることもできない。ゴーグルをかけて起動してパスワードを聞かれた時点で手が止まる。何度か間違えるとロックがかかるからむやみに入力するわけにはいかないが、弟が他人が推測できるようなものを設定しているとは思えなかった。何度か試してわからなかったらサポートセンターに連絡しようと思い、僕は駄目元で思いつく数字を入力した。

弟の誕生日4桁――不正解。

弟の生年月日6桁――不正解。

僕の生年月日6桁――正解。3回目でクリア。拍子抜けだ。

ともあれ中を確認したが、アプリが1つインストールされているだけだった。自分の訪れた場所をアバターと共に他人とシェアしてコミュニケーションするという最近流行りのSNSだ。僕もアカウントだけは持っている。それを起動すると、やはりログが1つだけ残っていた。東京の街中のとある場所。郊外で育った僕らと関係があるようには思えなかった。

VRで訪れることもできたが、やはり直接そこに行ってみることにした。専用のゴーグルなんて実家に置いていなかったし、これを残した状況も気になった。もしかしたら弟が僕だけに残そうとしたメッセージなのかもしれない。

僕は財布とスマホとゴーグルだけを手にして家を出た。



駅の改札を出ると、弟のアバターが映し出された。公共カメラの映像を合成しただけの素の姿。僕より頭半分くらい高い背丈と、少し猫背でなで肩の後ろ姿。それを目にしても特に感慨のようなものは浮かばなかった。式場で映し出されていた遺影と何も変わらない、ただの立体像だ。

弟以外のアバターも表示されていた。弟のように素の姿を見せているもの、既存のテンプレートをそのまま使用しているもの、視覚効果を盛大に盛ってアニメキャラのようになっているもの、実際にコスプレをしているものなど、いろんなアバターがいろんなログを残している。ある店の前でインフルエンサーがスイーツを食べているログには膨大な数の評価がついており、実際その店には行列ができていた。

見失わないよう弟のアバターにマーカーをつけ、その後について歩いた。弟はプレミアム会員ではなかったようで、フィルタをかけても広告や評価の高いアバターは消えず、人にぶつからないよう注意して歩かなければならなかった。実際街中でもトラブルが増えてるらしく、この前ワイドショーで大御所タレントが苦言を呈していたから、近いうちに条例か何かできるかもしれない。

ようやく大通りを抜け、閑静な住宅街に入った。久々の人混みに気疲れして息を整えている僕のことなど気にする様子もなく、弟は目的の場所に向けて歩き続けた。時々ログを一時停止させながら後を追い、とあるギャラリーの前に辿り着いた。

二階建ての古い木造建築をリフォームして活用した小綺麗な建物だった。蔦が生え日に焼けた白壁が年季を感じさせるが、レトロな雰囲気を作るためにあえてそうしているのだろう。受付で一人分のチケットを購入し、弟の後に続いて中に入った。

風景だとか人物だとかの写真がたくさん並んでいる、一見すると普通の写真展だったが、その多くはARで見るのもので、受付でゴーグルのレンタルもしていた。壁のQRコードからアクセスして自分のゴーグルでアプリを開き改めてその空間を見渡すと、作品の横に解説が現れ、近づくと音楽が流れ出した。中にはジェスチャーでインタラクティブに形を変える彫刻のような作品もあり、僕は一時ここに来た目的も忘れてアトラクションのような感覚で楽しんだ。

ある作品の前で弟は立ち止まった。

『故郷』という名前のその作品は、やはり他と同じようにゴーグルを着用して見るものだった。

ある大きな壁自体が作品となっていて、その中にスライドショーのように様々な街の立体像が映し出されていた。なんの変哲もない郊外の住宅街、坂道から見下ろす港町、同じ建物が何十建も並ぶ集合住宅、ダムの底に沈んだかつての村、大都会の中にぽつんと建つ木造の古い家屋。日本だけでなく外国の風景もあった。古めかしい石造りの建物、アジアのどこかの市場、草原の中に立つ移動式テント、強い日差しに照らされた海辺の街。立つ場所に応じて見える風景がダイナミックに変わる。ゴーグルをかけなければだたの壁にしか見えない場所は、数え切れないほどたくさんの街につながっていた。

僕はいろんな街を訪れ、隅々まで見て回った。骨伝導のスピーカーからは背景の音まで聞こえてくる。実際にその場所で録音したものかそれらしい効果音を使っているのかはわからないが、僕の没入感を促すには充分だった。

街の中に解説パネルが浮かんでいた。フィルムカメラの時代から活躍しているキャリアの長い写真家が生涯を通じて撮影した数万点にも及ぶ作品を3Dに復元し、彼の発言と共に展示した作品だという。

『人は誰でも違う景色を見ています。例え同じ場所で同じ光景を目にしていたとしても、立場や世代が違えばその意味するところは全く異なる場合もあります。それどころか、同じ人間が同じ写真を目にしてもその状況次第で印象が180°変わることもあります。
他人と視界を共有する写真という技術が発明されて長い期間が経ちましたが、他人と感情を共有するす術を我々は未だ手にしていません。せいぜい、似た意見を持つ者同士が狭いコミュニティ内で表面上で共感しているにすぎません。
しかし、それぞれ異なる景色を見ても同じ情緒を抱く場合もあります。例えば郷愁――故郷を目にした時に胸に浮かぶ感情。生まれ育った街の風景、幼い頃の思い出。境遇の異なる人間同士でも、共有できるものが必ずあるはずです。
この作品を目にしているあなたが隣りに立つ人と何かを少しでも共有できること。それが、写真を撮る人間として生きた私の目標だったのかもしれません。』

そう書いてあった。

馬鹿じゃないのか。世界的に有名な写真家だかなんだか知らないが、何もわかっていない。

そうじゃない。わかっていないのは僕の方だ。

同じ家で育ち同じ景色を見てきたのに、弟がどうして死んでしまったのか、どうして僕にこの作品を見せようとしたのか、何もわからない。

境遇が違っても人と人は分かり合える?だとしたら、もう二度と言葉をかわすことができない僕たちはどうなる?家族と分かり合えない人間が他人と分かり合うことなんてできるはずがない。

「馬鹿じゃないのか……」

スマートグラスにログを残すなどという回りくどいことをするよりも他にやるべきことがあったはずだ。視界を共有しアバターを残したところでなにもわからない。そんなことより、僕たちはもっと言葉を交わすべきだったのだ。

テクノロジーが進歩しても僕ら自身は何一つ進歩しなかった。一体どんなアプリケーションがあれば僕らは分かり合えただろう。死者と会話できるようになるまであと何年待たなければいけないのだろう。いつになれば、僕が抱えている虚しさをきれいに消し去ることができるだろう。

弟の姿は消えていた。作品の前で立ち尽くす僕のことなどお構いなしに、プログラムは予め指示された作業を完了して停止する。このログを残した時に弟はどんな顔をしていたのか、気を利かせて教えてくれることはなかった。

いつの間にかギャラリーの閉館時間になり、スタッフから追い出されるように僕は外に出た。無性に誰かと話したかったけれど、それが怖くもあった。今更人と言葉を交わして一体何の意味があるだろう。

日は傾き、空は夕焼けに赤く染まっていた。

最早何も映していないゴーグルを道端に捨てていこうかひとしきり迷ったあげく、結局未練がましくそれをポケットに仕舞い込み、僕は駅に向けて歩き出した。


『同じ景色を見るということ』止戈敏(しか・さとし)3935字


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