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「good sleep good girls」 ハリトユツキ

 遠くで爆発音が響いた。
 音がした後数秒遅れて、空一面が⻘白く光る。
 私たちはそれをぼんやりと眺めながら、火花に混じって空から降ってくるたくさんの星々をつかもうと手を伸ばした。
 真夜中 0 時、赤いワゴン車が森の中を進んでいる。ハンドルを握る力を先程より緩 めながら、窓からみえる景色を注意深く観察し続けている。
 永遠に赤から変わらない信号機。道路に沿ってぽつぽつと灯る LED ライトは車道を オレンジ色に染めている。車内には眠たそうに目をこするマツさんが車に付随してい るデジタル時計を見つめている。手の中の紙コップのコーヒーは 3 分の 1 だけ飲まな いまま放置されすっかり冷め切っている。紙の底はふやけて柔く今にも破れそうだが、手持ち無沙汰に彼女はしきりに指でその部分を撫でている。スピードを少しあげ ると視界が広がる。鮮やかな藍色が目線の隅を駆け抜けて、夜が加速する気がした。
 胸がじわりと熱くなって、自分が高揚しているのだと気付く。
 ここは 2 人の王国で、2 人だけしかいない。エンジンの唸り声と私の心臓がこの静 かな夜で唯一五月蝿く響いている。気持ちは車よりも速いスピードでこの道を走り抜 けていこうとしている。赤い車体を風がするする撫でて、時々夜空の境目を間違って地上に迷い込んだ星が当たって、こんと扉を軽くノックする。
「うう、ねむい、ごめん、うさ子。朝になったら運転かわるから」
「いいんです、私は朝きついから」
 眠気を覚まそうと思ったのかマツさんは窓を開ける。
 彼女はそこから入ってくる透明度の高い冷たい空気を肺いっぱいに吸い込んだ。ふたりの髪を、身体全部を、風が柔く撫でて包んでいく。眠気で温度の高い身体を内側から外側から勢いよく冷やしていく。
「ね、うさ子」名前を呼ばれた方に意識を向けると、先ほどまで小さくなっていたマツさんが車窓から軽く身を乗り出して、はしゃいでいる。

 あんまり嬉しそうに宙に手を伸ばすからハンドルを握っていた片方の手を彼女の服の袖にそっと添える。今にも車から落っこちてしまいそうだった。道は思っている以上に幅があり、障害物ひとつない広い一本道だ。ただ真っ直ぐに地平線に向かってそれは伸びているので、よほど手入れのされていない木がない限りはぶつかることはない。私は車のブレーキを踏みながら、周囲に人影がないか確認し、道端に停車させる。それから、運転席側の窓を薄く開けた。
「星が」
「ほんとだ...綺麗ですね」
 窓から空を覗くと、湖にたくさんのビー玉をひっくり返したような星空が広がっていた。コロコロと空一面を転がって、入りきらなくなったそれがいまにも落ちてきそうだと思った。そして、そのきらきらはマツさんの瞳の中でさらに眩く輝いていて、私はその眩しさに目を細めていた。
「ほんと、綺麗です」
「うん、うまれてはじめてみた」
 私のその言葉はマツさん自身に向けられたものだったけれど、何か言おうとして空気を吸い込んでそのままやめる。代わりにその小さい⻑い指にそっと触れた。温かい。温度の灯るその物体が愛おしくなる。きっとこの世界のどこを探しても、このぬくもりが得られることはない。そのことを触れるたびに思い出す、何度も愛おしさでいっぱいになる。
「冷えるね、今夜は」
 そういって、私の手をぎゅっと握り締める。燃えるように熱い手だ。
「こっちきなよ、こっちの方が良く見えるよ」と優しく引き寄せられる。
 本当は空はどこから見ても等しく美しかったけれど、そのぬくもりがあるだけで輝きは何倍もます気がした。
「もうずっと朝、こなきゃいいなって思っちゃうよな。こんなに静かなら」

 私のいた都市と比べるとこの道の夜は驚くほど静かだ。時々、(かつては獰猛だった)カラスがよろよろとしながら食べ物を探して鳴いているだけで、車のガソリンを蒸す音もアルコール中毒患者が喚き散らす声も聞こえはしない。誰かの声が耳元で顰めいているような気がするけれど、意識をそちらに集中させるとすぐに声は消失する。
 都市にいたときは昼も夜も引っ切り無しに追いかけられていたことを思うと、この静かな世界は夢のような気さえしてくる。やはり、都市や町を離れたのは悪くない選択肢だったのだろう。明かりや食事事情は困ることがあるけれど。
「えらい遠いところまで逃げてきちゃったけど、悪くないって思うことがときどきあるよ、こうしてると」
 その名前も知らない星たちを眺めながら彼女はそういった。
「うさ子と一緒ならどこいったって、しあわせだとおもうよ」
 星の灯る大きな瞳が優しく微笑んで、ゆっくり近付いてくる。私たちは恋人のように額を擦り合わせて、誰にも聞かれているはずはないのに小声でくすくす笑った。マスクとマスクがこつりとぶつかる。
「しあわせなことしかないね、この世界は」
「またそれですか」
「だって、しあわせなんだから、仕方ないじゃん」
 ふふふと彼女が小さく笑う。
「あいされてるきがする......」
 私がそういうと、当たり前みたいな顔をしたマツさんが愛してるよと笑った。

 彼女が何か言おうと唇を開けたとき、ズズとアスファルトに何かを擦り付ける音がした。空洞っぽい、否、金属のような軽くて高音。例えるなら、重たい空き缶とか金属バットを転がしながら引きずっているような、そんな音。
「......来た」
 黒い影だ。彼等が来たのだ。裾をずりずりと引きずりながら、夜にさらに深い闇を連れてくる。車体の低いところに無理やりに体を押し込め、息を押し殺す。小さく震える自分の身体をぎゅうと抱き締める。
 腕時計を見ようと左腕を捻る。一時半を十分ほど過ぎている。あまりの朝の遠さに溜息がでる。
——不意にガラスが弾ける音がした。
 彼等が入ってくるのだとすぐに悟った。
 マツさんが何か叫んだけど、うまく聞き取ることができない。わたしは車のキーを回し、ハンドルに手を伸ばして、それから重たい身体をすばやく整えてアクセルを踏んだ。ぐおんと車体が音を立てて、一本道を進んでいく。勢いで身体が後方に押し付けられる。
 窓ガラスにどんどんと身体がぶつかる音がする。後部席の窓ガラスは割れていて、そこから伸びてくる手をマツさんは身を乗り出して錆びた包丁で払い除けていった。
 心臓が壊れそうなくらい強く脈を打っている。酸素を吸い込もうとしているのに、上手に入ってこない。息苦しさで朦朧としていた。はやく楽になりたい。この恐怖と苦痛から掬い上げてほしい。頭はそのことばかり駆け巡っている。
「うさ子、」 名前が呼ばれた。誰かの名前。誰かの。いや、私の名前、ハンドルネームだ。 大して思い入れもなく、適当につけられた呼称。
「うさ子、大丈夫だよ、ゆっくり息吐いて」
 背中を撫でる指が暖かい。呼吸の間が少しずつ伸びていって、酸素の取り込み方をようやく思い出せたような気がした。

「うさ子は、だいじょうぶ」
「うん」
「いいことしか、待ってないよ。ほんとうだよ」
「うん」
 呼吸の仕方を忘れるのは、昔から時々あった。特に夜が明けて朝が近づいてくる瞬間、仕事や学校が近付いてくるとき、その方法を忘れてしまった。大概はそのまま意識を失うように眠って、気がつけば昼過ぎ。
 スヌーズが鳴り響いているスマートフォン、十何回目の着信履歴、それから。付けっ放しのテレビはワイドショーを流していて、昨日の灰色のパーカーに黑のロングス カートが床に放り出されてぐちゃぐちゃになっている。間隔の空いた時刻表、萎縮しながらするミスだらけの仕事。
 私の中の時計はどうしようもなく狂っていて、正しい針を刻むことができなかっ た。仕事も学校も 一日うまく通えないと、次の日もう玄関で靴を履くことさえできな かった。朝に私の居場所はなかった。
「何思い出しているの?」
「ううん、何も。まともになれなかったなあって」
「まともなんて、ただの概念でしかないよ」
「概念?」
「周囲の決めたルールは概念であって、今この世界におけるルールではない。うさ子の時計が違うそのおかげで、私が眠っているとききみは戦ってくれる」
 マツさんが白い⻭を見せてニイと笑う。ミラーには彼等の影がゆっくりとだけれど近付いてきているから前だけを見て車のアクセルを強く踏みなおした。
「ガソリン、もたないかもねえ、給油できるとこ探すかあ」
「窓ガラス、一枚割れちゃったし、別の車探します?」
「そうだねえ、あ、もう少しいったら⺠家のある街にでるから、そこまでいこう。キッチンかりて、朝ごはんにしよう」
「はやく朝、こないかなあ」
「パンケーキは好きかい?カリカリのベーコンは?」
「だいすき」
「よし、朝になったらつくるよ。うさ子が気にいるかどうかはわからないけれど。パンケーキ、焼くの好きなんだ」
 マツさんがフライパンを握っている姿を想像して、幸せな気分になる。 隣人は大きな欠伸をひとつして、それから肩をぐるりとまわす。パキパキと関節が音をたてる。
——四時過ぎ。冬の朝はまだ少し遠くて、⻑い。
 マツさんは私の左腕を枕についに眠りについた。私は右腕を上体が動かないように静かに伸びをする。
 地球上の人類は、ある日突然発見されたウイルスによって凶暴化した。資本主義を優先した政府の判断は後手にまわり、彼等が現れて一年ほどで何人かを残して絶滅した。もはや、どうでもいいことだけれど。
(「なんで、朝、起きられないの?社会人でしょ?」)
 消えたい夜を越えてきた。会社に行きたくなくて、世界は滅んじゃえばいいって思った次の日世界はあっという間に滅んで見せた。どうしたって私の時計は狂っていて、世界とはとうとう最後までサイクルが合うことはなかった。
「もういいんだ」 独り言のように私は言う。 疎外され続けた世界で生きようと必死にならなくていい。もういいのだ。
「......うさ子?」
「うん?」
「どした?もうそろそろ、うさ子の眠る時間でしょう?」
「うん、ねむくなってきたところ」
「そか、」
「うん」
「うん」
「マツさん」
「ん?」
「私ね、今の世界がいちばん好きだよ。滅亡してよかったなっておもうの」
「わたしも」
「うん、すき、だいすき」
 少しずつ生まれ変わる音が聞こえる。大きな火災と彼等の侵略を繰り返しながら、地球は元どおりに戻ろうとしている。人類はその威力に置いていかれたまま、いつか私たちも朽ち果てる日が来るんだろう。今はこの眠気に争わず落ちていこうと思う。
 昼頃に焼きあがるであろうマツさんのパンケーキの匂いで目を覚ますことを祈りながら。


『good sleep good girls』ハリトユツキ(4279字)



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