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「警告音高らかに」 四宮ずかん

 砂を踏む。海面に弾かれた光に目を細めながら、私はその先に居る人の元へ走った。
 波の音と白い砂浜、やわらかく吹く風に白いワンピースがふわりと揺れる。赤いリボンの麦わら帽子を押さえ、色素の薄い髪をきらきらと風になびかせながら、その人はゆっくりと振り返る。うつくしく光に透けた瞳は私を捉え、そして大きく見開かれた。
 右手にハサミを持ち、軽くなった頭を振って、足に纏わりつく煩わしいスカートは脱ぎ、何かを大発見したかのように心を踊らせ、私はその人を呼んだ。
「お父さん!」
 直後、少女の姿をしたお父さんの悲鳴が、青く広がる空に吸い込まれていった。


 ピンクの壁紙に大きなテディベア、フリフリのドレスを着た人形を睨み付ける私の後ろで、お母さんは厳しい口調で言った。
「アリス、いい加減にしなさい。これで何度目だと思っているの?」
「だって、この方が私に似合うなって思ったんだもん……」
 私は振り返ることなく、お母さんと目を合わせずに不貞腐れたように呟いた。「だってじゃありません! あなたが〈純少女〉じゃなかったら、とっくに更生施設に送られていたのよ!」
 お母さんは長くため息をつくと「それを見てもっとしっかりお勉強しなさい」と念を押し、仕事に戻っていった。
 部屋の隅には立体映像が映し出されている。もう何度も、私がお母さんに怒られるたびに見せられてきた映像。可愛いうさぎのキャラクターがこの国の〈人類少女化計画〉について説明し、こどもたちに少女とは何たるかを学ばせるための教育映像だ。
《少女とは、純粋さ、清らかさ、穏やかさ、愛らしさ、うつくしさ等を象徴する概念であり、国民のあるべき姿として定められているんだっ》
 うさぎは所々難しい単語を使いながら、妙に明るい声で説明を続ける。
《生身で少女になれない人々は、家の外では少女アバターを使って生活することを義務付けられているよ! 全国民に配布された少女指数測定器の数値が下がると、更生施設に送られちゃうから気を付けよう! 一方、アバターを必要としない生粋の少女は〈純少女〉として、尊く貴重な存在とされているんだ》
 長々と話し続けるうさぎからは何かを押し付けるような、有無を言わせないような圧力を感じる。この計画は今から十年前、私が三才になる年に始まったという。
 お父さんとお母さんは少女アバター開発チームに所属する優秀な技術者で、精神をリンクさせた人々にまるで生身だと思わせるような良質なアバターを提供している。そのどれもがふんわりとした髪に白い肌、ぱっちりとした目に優しげな顔をしてスカートをはいている。けれど私は、どうもそれらが自分に似合っているとは思えなくて、たびたび国の定める少女像から逸脱してはお母さんに酷く叱られていた。
 パステルブルーの姿見の前に立ち、今の私を見つめる。長くて鬱陶しかった髪はさっき自分でバッサリと切り、涼しげで爽やかで動きやすく、私によく似合っていると思った。服装だって、大きなリボンのついたふっくらしたスカートよりも、お父さんの実体が着ている大きなTシャツと運動用のハーフパンツを身に付けた今の姿の方が、よっぽど良い。こんなに似合うのだから、お父さんやお母さんもきっと褒めてくれるだろうと思ったけれど、結局また怒られてしまった。

 そうこうしているうちに、立体映像のうさぎは役目を終えて消えていた。
 私はそうっと部屋の外を見回して、誰も居ないことを確かめる。そしてお母さんに気付かれないよう、音を立てずに窓を開け、下から伸びるパイプに捕まる。いくつかあるパイプの固定金具に足をかけると梯子のようにして二階から外へ脱出した。
 ぴょんと飛んで地面の草を踏みしめた直後、私の左腕に埋め込まれた測定器からけたたましくビービーと警告音が鳴る。私は慌てて家の敷地から抜け出して、目的地へと走った。少女指数が一定数以下になると毎回こうなったが、少なくとも私が〈純少女〉である期間は更生施設行きは免れるらしい。警告音は何度か大きく鳴ると、すぐにピタッと止まった。


 ひっそりと木々に隠れるようにして建つその木製の小屋は、私のお気に入りの場所だった。中は薄暗いけど、窓から入ってくる日の光が埃っぽい床を黄色く照らしている。壁には紙のカレンダーが2022年のままかけられていて、小さなローテーブルの上には様々な本が積まれていた。
 私はよくここへ来て、埃だらけになった本を読んでみたり、窓から射す光が壁にこぼれるのを、ぼうっと眺めたりするのが好きだった。ここでは何をしても、少女らしくないと咎められる心配はない。私だけが知る秘密の場所である、はずだった。
「だ、誰っ!?」
 小屋の中には先客が居た。私の部屋というわけではないのに、思わず声をあげてしまった。
 先客は窓の外を眺めていたのだろうか、ちょうど射し込む光に照らされて顔がよく見えた。真っ直ぐ伸びる艶やかな黒髪に切れ長の目、陶器のようになめらかな肌、淡く色付いた唇。紺色のワンピースは裾に小さな花と青い蝶の模様が細かく散りばめられている。こちらを振り向く動きが私の中でやけにゆっくりと再生され、その横顔に見える流し目に、私は息を飲んだ。
「わたしはアオ。あなたの名前は?」
 どくん、と心臓が跳ねた。少し掠れた声をしていた。
「……アリス」
 私は自分の名前を口にするのが精一杯だった。アオと名乗るその少女には、今まで見てきた少女たちやアバターとは違う、何か不思議なものを感じた。
「アリス、」アオは私をまっすぐ見て微笑む。「その髪、似合ってる」
 反射的に息を吸い込むと、その一言が心の奥底まで浸透し、少し遅れて目の周りがじん、と熱くなった。未だに小屋の入口で立ち尽くしている私は、胸のあたりがぎゅっと苦しくなっていることに気付かない振りをした。


「わたしね、〈純少女〉じゃないの」
「えっ、そうなの!?」
 ひとまず落ち着いた私は小屋の中へ入り、床に胡座をかいて座った。
「うん、アバターでもないからね」
 アオは丸いスツールの上にハンカチを敷いて腰かけている。時々喉を気にしていて、何度か軽く咳払いをしていた。
 アバターでも〈純少女〉でもない、つまりアオは少年の身体のまま少女であり続けているということだ。声が低く変わろうとしているその年齢で、アバターを使わずに少女指数を維持できる人は極めて稀だった。
「アオちゃんは、アバターを使いたくない?」
「……というよりは、わたしは自分の意思でなりたい姿になりたいの。国の定めた少女像を強制的に押し付けられたのではなく、わたしがわたしであるために必要だから少女になるのだという意思表示、みたいなものかな」
 声が掠れるたびに苦しそうな顔をしながら、アオはきっぱりと自分の思いを語った。
「だからアリスを見た時、同じように自分を模索しようとしている子がいるんだって、嬉しかった」
 ダークブラウンの瞳が私を捉える。髪を切った時、スカートを脱ぎ捨てた時、これまでに感じたことのない高揚感の後に、ようやく見つけたものを否定され奪われる怖さが残った。お父さんやお母さんなら分かってくれると思った。でも駄目だった。測定器から鳴る警告音がずっと耳にこびりついている。国から存在を否定されているようだった。アオの微笑みの中、瞳の奥に微かに見える昏い部分には、どんな記憶があるのだろう。
「私、アオちゃんのこと、知りたい」
 うわ言のように口から出てきた言葉は、それでもしっかりアオに届いた。優しく頷くアオを見つめる視界の端で、空気に舞う埃がきらきらと輝いていた。

 アオとはいろいろな話をした。お気に入りの場所、好きな小説、よく聴く音楽。ここは少し前から見つけていたこと、私が出入りしているのを知っていたこと、それを遠くから見てずっと話がしたいと思っていたこと。
 そして、今日はアオがアオで居られる最後の日になるということ。
「声がね、もう、駄目みたい。わたしは国民に相応しい姿じゃないんだってさ」
 アオが差し出した左腕の測定器には、警告ギリギリの数字が刻まれていた。明日にはアバターの生活を強いられることになるだろう。アバターは声も身体も少女のようになるけれど、国が定めた理想像になる装置でしかない。型に押し込められ、数値に怯えながら生きるのは、自分を殺すことと同じだ。
「アリス、わたしはいつか必ずわたしを取り戻す。そのために今、やらなければいけないことがあるの。わたしのお願い、聞いて」
 決心したようにアオは、私の手を取った。強くて、うつくしいひとだと思った。私は遠い星を眺めるようにアオを見つめ、曖昧に頷いた。アオの言う願い、それは――
「わたしを見てて、アリス……」
 直後、アオは宙に向かって禁忌を犯す。

「こんな世界、絶対におかしい!」

「ア、アオちゃん! 数値がっ」
 国を非難する禁じられた叫びに、アオの左腕からは異常なほど激しく警告音が鳴る。
《危険思想! 危険! 危険!》
 一瞬怯えた表情をしたアオは、けれど止まることはなかった。

「あるべき姿ってなに? 理想を押し付けないで! 支配しないで! こんなものに怯えて生きるなんて馬鹿げてる! わたしは、わたしとして生きたい!!」
 音にかき消されないように大きくはっきりと、掠れて上ずる声を気にもせず、アオは叫んだ。
 鳴り響く警告音は自分を失っていない証のようだった。私はその行為が、自分の意思を口にすることが、とても重要で意味のあることのように思えた。何かに背を押されたように、気付けば体は動いていた。

 私が隣に立つと、アオが頷く。私も頷く。ぐつぐつと体の奥底から沸き上がる熱を言葉に。やらなければいけないこと、私にもあったんだ。

 二つの警告音が高らかに鳴った。私たちは顔を見合わせて笑う。吹き始めた風は勢いを増し、私の心を強く強く揺さぶった。


〈了〉


『警告音高らかに』四宮ずかん(3997文字)


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