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「葦が矢となる」 柚子ハッカ

 地図上にもう日本はない。
 いや実際には存在するが、もう無いものとされている。
 未知のウィルスが世界中で蔓延した。もちろん日本でも蔓延した。そしてなんの悪戯か日本で信じられない変異を遂げた。そのウィルスに罹ると子孫を残すことが出来ないという後遺症を残したのである。しかも100%の確率で。それには各国の偉い人達がすぐさま反応した。それはそうだろう、国の存亡に関わる。日本からの渡航はすぐに制限された。島国で起きた変異だ。各国はこぞって手を組み、島国ごとそのウィルスを封じ込めようとしたのである。あんなに敵対していた国々は今までのことが嘘のように手を組んだ。
 慌てたのは日本国民だ。お金のある者は我先にと海外へ逃げた。役人も政治家もすぐにでも逃げたかったが、そうも出来ずに取ってつけたような法案を通してさっさと投げ出した。子を成す可能性のある年齢の者だけを国のお金で海外へ逃げられるようにした。そして海外への渡航を希望しない若者は、国会議事堂の地下にある研究室で冬眠状態にして、ウィルスの後遺症について解明するまで時間をかせぐという荒技をやってのけた。それに当てはまらなかったのは老人である。お金持ちの老人は自費で、家族のあるものは家族と一緒に渡航した。
 そしてお金もなく身寄りもない年寄りだけがこの島国に取り残されたのだった。


 今日も私は診療所へ向かう。もう薬なんて手に入らない。趣味で植物療法を学んでいて、これほど役に立つ日がくるとは夢にも思わなかった。あれほど薬、薬と叫んでいたのに。まさか草を積んできて煎じたり焙じたりする日が来るとは。
 診療所の薬棚に向かう。瓶詰めされた薬草たち。その量をチェックする。足りなければ摘みに行ってもらわなければならない。

「おー。みっちゃん今日もいいケツしてるねえ」

 でた。昭和のセクハラ。

「おはようございます。今日も元気そうですね、先生」
「みっちゃんのケツを見ないと一日元気で働けないからな」そう言ってこの診療所の“先生“はガハハと笑った。
 この国にはちゃんとした医者はいない。すでに海外へ出て行ってしまった。医療従事者は年齢関係なく、渡航できるパスポートを配布されていた。この“先生“はちゃんとした医師免許は持っていない。昔は持っていたようだが剥奪されていた。

 その時部屋の扉がノックされた。私は扉を開けた。

「昨日転んじゃってねえ」入ってくるなりいきなり話を始めた。イトさんというお婆さんだった。
「あれほど気をつけろと言ってるだろうが。転んだりしたら死ぬぞ」先生はサラッと答えた。確かに碌な治療が出来ないので、以前はなんでもなかった怪我や病気が命取りになる。
「あらヤダ、先生! 今さら死のうが生きようが関係ないですよ。ただ歩くけなくなるとみんなに迷惑かけますから。それじゃなくてもみんな自分のことで大変ですのに」
 先生は眉間に皺を寄せたまま、無言で私に顎をしゃくった。はいはい、湿布薬の用意ですね。私は小麦粉とお酢を混ぜて布に広げた。イトさんはちゃっかりベッドの上に横になっていた。私はその足首に布を当てて縛った。
「いつも悪いわね」
「気をつけて下さいね。骨折したら大変ですよ。どこで転んだんですか?」
「部屋の段差でね」
 なるほど。だとしたらそこは手を入れてもらわないといけない。

 イトさんの治療を終えるとすぐに大工班の昌さんが飛び込んできた。

「先生! 清の奴が腰やっちまった! 来てくれ!」

 どうやら次は往診らしい。清さんは腰痛持ちの人だ。痛み止めのヤナギとフランネル生地とキャスターオイルを鞄につめた。今作った湿布も念のため持っていこう。
 私と先生は大工班の集会所の清さんのもとへ向かった。清さんは唸っていたが先生は雑に治療を始めた。私は昌さんを呼び止めた。
「イトさんがまた家の中で転んだらしいんです。ちょっと見てもらえますか?」「寝室んとこの段差かい?」
 詳しくは分からないと答えた。もし直せるなら他の人の家もそうして欲しいと頼んだ。先に転ばないように配慮しておくことがここでは重要だ。昌さんは頷いてすぐにみんなを呼んだ。

 清さんのところから診療所に戻る途中にも何度も声をかけられる。
「胃が痛い」「一食抜いても良くならないなら診療所へ来い」
「胸が痛い」「後で薬を持っていく」
「腰が痛い」「我慢できなくなったら言え」
 雑な受け答えだ。それでもみんな満足しながら頷く。先生と私はその足で診療所近くの緩和ケア施設に寄った。ここではがんなどの重い病気で残り時間が少ない人のためのケアを行なっている。何度もいうが薬はもう手に入らない。だからここでは大麻が主に使われている。
 先生は各ベッドに寄って「どうだ?」とだけ声をかけた。それだけでいろいろ話が出てくる。メモを取るだけでも大変だ。先生はその話に「ああ、そうか」と雑に返事をするだけだ。

 午前中はいつもこんな感じで終わる。今日は患者さんが少なかったほうだ。お昼を食べ終えると薬草をお願いするために採取・狩猟班のところへ向かった。向かう途中で声がかかる。イトさんだった。仲間とお昼を食べてるらしい。手招きをされたので寄ってみることにした。

「看護師さんでしょ? 大工さんに頼んでくれたのって」
 ああ、もう何かやってくれてるんだ。
「ええ。もうやってくれてるんですね」
「ありがたいわねぇ。私の部屋はもう終わったんだけどね。今は八重さんのところやってるから」
 隣に座る八重さんはうんうんと頷いた。助かるわねえ、そうねえとお互いに言い合っていた。

「看護師さんはどうして出ていかなかったの? “先生“とは違うんでしょ?」
「まあ。欲しいって頼まれたんで。私には身寄りもなかったし」
 私は曖昧に微笑んだ。私にも出ていくチャンスはあった。けれど医療従事者に配られたパスポートはお隣の人が困っていたので譲ることにした。母の介護の時にお世話になっていたからだ。別に譲ること自体に問題はなかった。
「そういえば、“先生“ってなんで医者をクビになったんだったかしら?」
「なんだったかしら? ロボト何とかって手術を勝手にしたとかなんとか」
「あら、私は期間を過ぎてから妊娠中絶をさせたからって聞いたわよ」少し離れたところに座るお婆さんの集団が会話に入ってきた。それぞれが自分が聞いた話をし始める。埒があかないので私はそっとその場をあとにした。

 大麻の畑で何か揉めていた。ガタイのいい爺さんたちが一人を取り押さえていた。
「この馬鹿がまた勝手に使いやがった!」取り押さえられている人をよく見れば、大麻畑から盗み出して勝手に使用している常習犯の爺さんだった。大麻とケシは医療に使う以外に認められてはいない。
 常習犯の爺さんは引き摺られるようにして連れて行かれた。きっと粛清されるんだろう。それはここでは仕方のないことだ。


「看護師さん!」と声がかかる。採取・狩猟班の人達だった。ちょうどよかった。私は足りない薬草を採ってきて欲しいとお願いした。
 採取班と狩猟班が一緒になったのは動物の数が増えたからだ。山に草を採りに行くだけなのに、熊や猪に出会う確率が数段に増えた。だから今では採取と狩猟は一緒に動く。狩猟とはいえ銃があるわけじゃない。数少ない鉄パイプを片手になるべく出会わないように大きな音を出して行くだけだ。だがそれでもたまに猪を獲ってくるから不思議だ。
 私は足りない薬草を書き出したメモを手渡した。
「全然なくなったわけじゃないんで、無理しないで下さい」
「大丈夫だって! 戦争経験者舐めんな!」狩猟班の高宮さんが大きな声で笑いながらそう答えた。昔、柔道やっていたと聞いている。
「いや、お前何年生まれよ?」採取班の清治さんがポツリと言った。
「昭和25年」
「戦後じゃねえか」
 まあ細けえことは気にすんな、用意して行くぞと高宮さんは清治さんを引っ張って行った。狩猟班の人はどうにも血の気が多い豪快な人が多い。そして年齢の割に元気だ。

 診療所に戻るとなぜか先生が仕事をしていた。

「まだ昼休憩してていいですよ?」
「最近日が暮れるのが早いから、すぐ暗くなるだろ。わざわざ火を灯してまで仕事したくない」
 それを聞いて苦笑する。確かにそうだ。
 もう電気は届いていない。東北のほうの集落の一部ではまだ使えると聞いたけれど、本当のところは分からない。
「──そういえば国会議事堂の地下って電気は使えるんですかね? 冬眠って聞こえはいいけど仮死状態のまま冷凍しとくってことじゃないですか?」
「非常用電源がどこまで持ってるかによるだろうけどなあ。もう無理だろ」
 先生は書きかけの書類から目を離さずに答えた。
「無理って。どうなってるんですかねえ」
「腐ってるってことだ。そんなに気になるなら見に行ってみればいい」
「嫌ですよ」

 私は先生が書いた書類を手に取ると、薬棚に向かった。先生の指示通りに瓶から出して紙に包んでいく。
 先生は全然聞いてないふうに見えるが、どうやらしっかり見ているらしい。処方の薬草が微妙に変わっていた。先生が医師免許を剥奪されたのは、日本では認められていない安楽死をおこなったからだ。私は昔それをニュースで見て知っていた。
 そんな先生が取り残された老人のために懸命に薬を処方してるのも不思議な気もした。

 未知のウィルスの解明が先か取り残された老人達がしぶとく生き残るか。

 なかなかいい闘いかもしれない。それでも僅差でこの強かな老人達が勝つと私は密かに思っている。

 〈了〉


『葦が矢となる』柚子ハッカ(3875文字)

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